延元元年(1336年)5月25日に湊川の戦いで楠木正成が戦死しました。
翌26日には、湊川から退却した新田義貞が、京都に戻ってきました。
湊川での敗戦により、足利尊氏の軍勢が京都に攻め上ってくるのは時間の問題。
そのため、27日に後醍醐天皇は京都をいったん離れ、比叡山の東坂本へと移りました。
生前に楠木正成が提案した、足利軍を京都におびき寄せて街道を封鎖し物流を断つ作戦を実行することにしたのです。
男山から動かない足利尊氏
比叡山へと向かう後醍醐天皇の列には、足利尊氏に綸旨を発した光厳上皇の姿もありました。
上皇は、後醍醐天皇に着いて行く気はなかったので、途中で列を離れ東寺へと引き返しました。
そして、5月30日に東寺に入った足利尊氏と合流し、6月3日に一旦、京都市の南にある八幡市の男山まで軍勢を引き上げました。
1月に京都を占拠したものの、物流を断たれて、兵糧攻めにあった経験から、うかつに京都市街に留まっては、同じ失敗を繰り返すだけと判断したからです。
しかし、尊氏は男山に布陣していたものの、弟の直義は京都にあって、6月6日の軍議で、7日に東寺から比叡山へ総攻撃を開始することを決定しました。
これに対して、後醍醐天皇方は、東坂本を新田義貞が守り、西坂本を尊良親王(たかながしんのう)と千種忠顕(ちぐさただあき)が守ります。
千種忠顕の戦死
西坂本を攻撃する足利軍は高師重(こうのもろしげ)。
千種忠顕は、足利軍が雲母坂(きららざか)から西坂本へ攻撃してきたのを見て、京都の南に布陣させている四条隆邦に合図をして、足利軍を挟み撃ちにする作戦を立てていました。
また、万が一の場合には、東坂本にいる新田義貞と名和長年が西坂本に駆けつける手はずとなっていました。
そして6月7日。
東坂本と西坂本へ、足利軍の総攻撃が始まりました。
しかし、予定していた四条隆邦の軍勢は、足利軍の背後を攻撃しません。
四条軍も苦戦していたため、京都市街を抜け出すことができず、西坂本に駆けつけることができなかったのです。
西坂本に攻めかかる高師重の軍勢が、比叡山の堂塔に火を放ちました。
その炎が天に向かって伸びていくのに気付いた東坂本の新田義貞は、一大事と西坂本へと馳せ向かいます。
雲母坂を攻め上る高師重の軍勢を食い止めるため、千種忠顕は、兵と兵が乱れあう中で戦い続けました。
しかし、新田義貞が駆け付けた時には、千種忠顕はすでに戦死。
足利軍を追い払い、高師重を捕えたものの、千種忠顕の戦死は、大きな痛手となりました。
なお、新田義貞に捕えられた高師重は、その後、比叡山に引き渡されました。そして、僧兵たちが、堂塔を燃やされた怒りから、なぶり殺しにしたといわれています。
千種忠顕旧跡
叡山電車の修学院駅から北東に5分ほど歩いた辺りに鷺森神社(さぎのもりじんじゃ)の参道を示す石標があります。
この石標の脇にある背の低い石柱には、「千種忠顕卿遺跡」と刻まれています。
この石柱は、ここから300メートルほど進むと雲母坂があることを示しています。
下の写真に写っているのは、雲母坂の入口です。
ここを登っていくと、千種忠顕が戦死した地があり、そこには石碑が置かれています。
私は、雲母坂の入口までしか来なかったので、その石碑を実際に見たことがありません。
なので、写真については、「かげまるくん行状集記」というWEBサイトの雲母坂のページをご覧ください。他にも雲母坂の写真が多数掲載されていて、詳しく解説されているので、参考になりますよ。