元弘3年(1333年)5月に鎌倉幕府が滅亡した後、後醍醐天皇を中心とした政治体制が速やかに確立されていくかに見えました。
しかし、公卿に手厚く、武士を冷遇する恩賞に諸国の武士たちは天皇親政に少しずつ不満を募らせていきます。
そんな中、6月13日に護良親王(もりながしんのう)が征夷大将軍に任命されます。
討幕に加わった足利尊氏にとっては、自分が征夷大将軍になるつもりだったので、護良親王が征夷大将軍になったことには、不満が残るものとなりました。
天皇親政を推し進めたい護良親王と幕府再興を望む足利尊氏
後醍醐天皇が鎌倉幕府を倒したのは、北条家を中心とした武士の政治が腐敗していたことが理由です。
だから、鎌倉幕府滅亡後は、後醍醐天皇を中心とした政治体制に期待が集まりました。
しかし、武士を冷遇する天皇親政に対して、すぐに武士の心は後醍醐天皇から離れていき、源氏の血を引く足利尊氏へと移っていきます。
足利尊氏としても源氏が幕府を再興することを望んでおり、そのために鎌倉幕府を倒したのですから、自分が征夷大将軍になることを希望していました。
ところが、ふたを開けてみれば、護良親王が征夷大将軍となっていたのです。
さすがに足利尊氏もこれには失望します。
しかし、護良親王にとっては、足利尊氏の野望を事前に察知していたことから、自分が征夷大将軍になったことは予定通り。
鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏とその弟の直義に不穏な動きがみられたことから、護良親王は、信貴山にこもって足利兄弟を牽制していました。
でも、自分が征夷大将軍に任命されたことから、6月17日に信貴山を下り、その後、京都に入りました。
足利兄弟を分断
とは言え、足利兄弟がそろって京都にいるのでは、いつ何をしでかすかわかりません。
そこで、後醍醐天皇の近臣たちは、足利直義と成良親王(なりながしんのう)を鎌倉に派遣しました。
そして、直義を監視する目的もかねて、北畠顕家と義良親王(のりながしんのう)を奥羽へ向かわせることにします。
これで、足利兄弟が騒ぎ出すことはないだろうと、天皇の近臣たちは一安心します。
しかし、再び足利兄弟に不穏な動きが見られたときは、その責めを護良親王に負わせ、征夷大将軍を解任することにしていました。
年は明けて元弘4年。
この年の1月29日に元号が建武に変わります。
朝廷は、天皇親政を推し進めるため、大内裏の造営を決定し、その費用の捻出のため地頭御家人に対する課税を強化し、武士の不満はますます強まっていきました。
さらに新紙幣を発行したことで経済は混乱。
しかも、地方では、所領を巡る争いが頻繁に起こり、それを扱う裁判も多くなりました。
そして、3月に入ると、ついに地方では武力衝突が起こり始めます。
護良親王と足利尊氏がますます対立することに
こうなってくると、地方の争いを鎮める必要が出てきます。
これを好機と思った足利尊氏は、地方の争いを鎮めに行くから、自分を征夷大将軍に任命して欲しいと朝廷に要求し始めました。
しかし、この時点での征夷大将軍は護良親王です。
当然、このような足利尊氏の要求に護良親王は、黙っていられません。
万里小路藤房(までのこうじふじふさ)にも、いったん、征夷大将軍を辞任するように説得された護良親王でしたが、その気はなく、ついに6月7日に足利尊氏の屋敷を襲撃することにしたのです。
この護良親王の動きをすぐに察知した足利尊氏も兵を待機させ、襲撃に備えました。
最終的には、楠木正成が両者の間に立ったことから、足利尊氏と護良親王の武力衝突は回避されましたが、これ以降さらに両者の確執は深まっていきました。
護良親王が襲撃しようとした足利尊氏の屋敷は、高倉御池にありました。
現在、その跡地には、京都府保健事業協同組合・保事協会館が建っています。
その入口には、「足利尊氏邸・等持寺跡」と刻まれた石碑があります。
後に足利尊氏が幕府を開いたとき、この地で政務をとったことから、室町幕府発祥の地と伝えられています。
ここより御池通を挟んだ南側には、足利家の鎮守社の御所八幡宮もあり、石碑が立つ場所から、その境内が見えます。