護良親王の挙兵に対して幕府軍が布陣した一乗寺下り松

元弘元年(1331年)8月24日の夜に京都を脱出し、南都に向かった後醍醐天皇のおとりとなるために偽天皇に扮装した花山院師賢(かざんいんもろかた)らが比叡山に到着しました。

翌日25日になって、後醍醐天皇が失踪したことを知った六波羅探題の北条仲時は、兵を出して、公卿の万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)、洞院実世(とういんさねよ)、九条公明(くじょうきんあきら)などを捕えました。

しかし、彼らも後醍醐天皇からは何も聞かされておらず、失踪したことを知りません。

その日、さらに六波羅を驚かせたのは、比叡山の八王子で、護良親王(もりながしんのう)が討幕のために僧兵を味方につけて挙兵したことでした。

北条仲時は、後醍醐天皇も比叡山にいるに違いないと思い、急ぎ、後醍醐天皇と帝位を争っている持明院統(じみょういんとう)の後伏見上皇、花園上皇、そして皇太子の量仁親王(かずひとしんのう)を六波羅に避難させ、佐々木時信、海東左近将監(かいとうさこんしょうげん)らの諸将に7千ほどの兵を持たせ出陣させました。

一乗寺下り松と東坂本からの挟み撃ち

六波羅勢は、比叡山へと続く雲母坂(きららざか)の近くの一乗寺下り松に布陣しました。

一乗寺下り松

一乗寺下り松

そして、海東左近将監ら2千の兵を東坂本に布陣させ、2方向から比叡山を挟み撃ちにすることにしました。

一方、比叡山では、後醍醐天皇が行幸していることを知った僧兵たちが次々と合流し、護良親王の軍勢は3千にまで膨れ上がっていました。

護良親王が、比叡山に錦の御旗を掲げると、僧兵たちの士気は一気に高まり、攻めのぼってくる六波羅勢を迎え撃つ準備も万端。

8月28日には、護良親王の軍勢は6千にまで増え、いよいよ六波羅軍との戦いが始まりました。

偽天皇であることが僧兵たちに気付かれる

激戦となったのは、8月29日の東坂本の唐崎の戦いでした。

ここでは、六波羅の海東左近将監の軍勢が比叡山の僧兵たちとぶつかりました。

僧兵たちの勢いは凄まじく、攻めかかった六波羅勢は押しのけられ、海東左近将監も快実という僧兵によって討ち取られてしまいました。

攻め手の六波羅勢は、いったん唐崎を捨てて退却。

戦いに勝利した僧兵たちは意気揚々と比叡山へと戻っていきます。

しかし、その夜になって、比叡山にいる後醍醐天皇が偽物であることが僧兵たちに気付かれてしまいました。

護良親王は、事前に僧兵たちに後醍醐天皇が南都に向かっており、比叡山がおとりになることを秘密にしていたのです。

これに怒った僧兵たちは、次々と比叡山を去り、護良親王の許に残ったのは、数百人ほどでした。

もはや比叡山では戦えないと判断した護良親王は、伊勢方面で味方を募り、その後で後醍醐天皇と合流して戦うことを決めて、比叡山から出ました。

また、護良親王の弟の宗良親王(むねながしんのう)も、四条隆資(しじょうたかすけ)らとともに後醍醐天皇の許に向かいます。

偽天皇に扮していた花山院師賢も比叡山を脱出し、後に後醍醐天皇と合流しました。

ちなみに六波羅勢が布陣した一乗寺下り松は、後に宮本武蔵が吉岡一門と決闘をした場所です。

近くには、八大神社があり、宮本武蔵は決闘の前にここに参拝したといわれています。

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