蛤御門の変で全焼しても再建された浄慶寺

京都市中京区と上京区の境目付近にある御幸町竹屋町のあたりを歩いていると、小さなお寺が建っているのに気づきました。

こういったお寺は京都にはとても多いので、多くの場合、素通りするわけですが、門前に説明書が立っていたので、どういうお寺なのか知りたくなって読んでみることにしました。

説明書は、京都市が立てる事が多いのですが、この小さなお寺では、住職の方が説明書を作って、門前に立てたようです。

説明書の最初の部分を読んでみると、小野山浄慶寺(じょうきょうじ)と書かれていました。

もともとは愛知県にあったお寺

下の写真に写っているのが浄慶寺です。

浄慶寺

浄慶寺

門の中には入ることができないようなので、外から眺めることと説明書を読むことしかできませんでした。

その説明書から、浄慶寺の由緒を紹介します。

浄慶寺は、もともとは愛知県にあったお寺だそうです。

戦国時代に織田信長の命により、檀長の中嶋家と吉田家とともに京都に向かったことが理由で、浄慶寺がこの地に建つことになるわけです。

途中、浅井長政の擁護を受け、蓮如上人の木像を授かったそうです。

織田信長の安土城築城に際しても、檀信徒が携わり、天井絵を描いた狩野山楽も壇家となったということです。

本能寺の変で、信長が亡くなった後は、豊臣秀吉とともに上洛、慶長9年(1604年)に徳川家康の加護により、当地にほぼ現在と同じ地形でお堂が建てられました。

この時、東本願寺の末寺となります。

山号の小野山は、梶井宮家の御料地であった左京区上高野小野にある小野山に建っていた宮家の御殿を賜って本堂としたことが縁で付けられたものです。

浄慶寺4世は、和歌俳諧に優れ梶井宮の師資となり、宮からあつい加護を受けたとのこと。

その縁から、元治元年(1864年)の蛤御門(はまぐりごもん)の変で、お寺が全焼した後も、浄慶寺4世の遺徳により梶井宮から妙心寺門前に仮堂支援を受け、ほどなく本堂も再建されたそうです。

蛤御門の変は、御所で起こった長州藩と幕府との戦いです。

この戦いで、京都では、多くの民家が焼失しました。御所の近くに建つ浄慶寺も、大変な火災だったことでしょう。

あまり大きくないお寺が、その後に再建できたのですから、梶井宮家との結びつきが、とても強かったんでしょうね。

なお、浄慶寺が建つ地は、平安時代末期に源頼政の邸宅があった場所と伝わっています。

現在、境内に祀られている石地蔵は、当地の守り仏(地主)として大切に受け継がれているそうです。

浄慶寺のような目立たないお寺でも、京都で起こった歴史的事件と何らかの関係があるんですね。

こういったことを知ることができるのも、京都散策の魅力のひとつと言えます。