京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、明治維新に貢献した志士たちの墓碑が多数あります。
その多くは、長州藩士や土佐藩士のものですが、それ以外の藩士の墓碑や招魂社もあります。
幕末史にあまり登場しませんが、鳥取藩では、明治維新に貢献した志士87人が、霊山の山頂に建つ鳥取藩招魂社に祀られています。
本圀寺事件殉難者も祀られている
鳥取藩招魂社は、明治3年(1870年)に鳥取藩知事の池田慶徳が、明治維新を目前にして亡くなった幕末殉難者11柱と慶応4年(1868年)に始まった戊辰戦争(ぼしんせんそう)の殉難者76柱を祀るために創建したものです。
戊辰戦争殉難者の中には、京都の山国隊士11柱も含まれています。
戦後に荒廃し、昭和36年(1961年)の第2室戸台風で崩壊したのですが、鳥取藩招魂社整備委員会によって昭和44年に再建されました。
鳥取藩招魂社の説明書には、殉難者87名の氏名が書かれています。
幕末殉難者11名には、天誅組の変や生野の変といった有名な事件に加わった者の他に足利将軍の木像梟首事件といったそれほど有名ではない事件にかかわった者も含まれています。
鳥取藩で幕末に起こった重大事件と言えば、本圀寺事件です。
本圀寺事件もそれほど有名な事件ではありませんが、鳥取藩にとっては大きな出来事で、その殉難者も鳥取藩招魂社に祀られています。
事件の概要は以下のとおりです。
文久3年(1863年)8月に藩内で、幕府寄りの重役数名が、天皇を敬うべきだという尊王思想を持った若者約20名によって殺害されました。
これで藩論は、尊王に傾くかと思われたのですが、直後に尊王の総本山ともいうべき長州藩が、孝明天皇の怒りを買い京都から追放される八月十八日の政変が起こったことで、若者たちの思惑通りにはならず、謹慎の身となります。
その後、若者たちは、第2次長州征伐の際に藩を抜け出し、長州藩に入ろうとしましたが、その途中で彼らに暗殺された重役の遺族による仇討にあい、数人が亡くなりました。
詳細は以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
鳥取藩の殉難者の名を追っていくと、奥田万次郎、太田権右衛門など、本圀寺事件に関係した者の名が見られます。
両名とも、暗殺に加担した若者です。
暗殺された重役の名を探してみたのですが、見当たりませんでした。
やはり幕府寄りだったということで、京都霊山護国神社の敷地内には祀られなかったのでしょうか。
説明書に合祀されていない殉難者として幕末殉難者17名、戊辰戦争殉難者22名がいることが記載されていたので、その中に重役たちが含まれているのかもしれません。
なお、京都霊山護国神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。