文久3年(1863年)8月に起こった天誅組の変は、後に倒幕の導火線となった事件として評価されるようになりました。
天誅組を率いたのは、土佐藩出身の吉村寅太郎で、京都市東山区の京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)には、彼と天誅組の墓碑があります。
大和で壊滅
天誅組の変は、孝明天皇の賀茂行幸と石清水(いわしみず)行幸の後に計画された大和行幸の先兵として、天誅組が大和に乗り込み起こりました。
孝明天皇の行幸は、外国人を日本から追い払おうという攘夷(じょうい)を祈願するもので、賀茂行幸も石清水行幸も徳川家がお供しました。
そして、3回目の行幸は大和に決まり、ここで長州藩やそれに味方する公卿は、一気に倒幕に突き進もうと画策していました。
しかし、この企ては、倒幕の意思がない孝明天皇に一蹴され、長州藩は京都御所の警護を解かれ、7人の公卿とともに長州に落ちることになりました。
この知らせは、すぐに大和に乗り込み五條代官所を襲撃した天誅組にも届きます。
通常なら、知らせを聞いて挙兵を中止するところですが、天誅組の決断は、単独で挙兵するというものでした。
しかし、大和周辺の諸藩によって天誅組は壊滅に追い込まれ、吉村寅太郎以下多くの志士が命を落としました。
ずらっと並ぶ天誅組の墓碑
天誅組の墓碑があるのは、休憩所の近くです。
天誅組の中でも、吉村寅太郎の墓碑だけ別にあります。
その他の天誅組メンバーの墓碑は、天誅組志士墓所と書かれた石柱が立っているところにあります。
下の写真の一番左にあるのが、松本奎堂(まつもとけいどう)の墓碑です。
松本奎堂は、若い頃に槍術の稽古中に左目を失明し、天誅組の変では、右目も失明し、戦死しました。
ちなみに中里介山の小説「大菩薩峠」の盲目の主人公机龍之介は、松本奎堂がモデルといわれています。
他に墓碑を見ていくと、那須信吾や池内蔵太(いけくらた)のものも見つかりました。
那須信吾は、土佐藩出身で、藩政改革を行っていた吉田東洋を暗殺した後、脱藩して天誅組に加わり戦死しています。
池内蔵太も土佐藩出身で、天誅組に加わった後、坂本竜馬が結成した亀岡社中に入っています。その後、乗っていた船が台風で難破して、亡くなっています。
京都霊山護国神社は慶応4年(1868年)に創建されたものなので、ここにある墓碑には、天誅組のメンバーは埋葬されていません。
なお、天誅組の変については以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
また、京都霊山護国神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。