禁門の変殉難者の墓碑・京都霊山護国神社

前回の記事では、京都霊山護国神社(きょうとりょうぜんごこくじんじゃ)の池田屋事件殉難者の墓碑を紹介しました。

池田屋事件は、元治元年(1864年)6月に起こり、長州系の浪士たちが新撰組に斬られたり捕縛されたりしました。

それに怒りを覚えた長州藩が、翌月に大挙して京都に攻め上り、幕府軍と戦ったのが禁門の変です。京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)が激戦地であったことから蛤御門の変とも呼ばれています。

その時の殉難者の墓碑も京都霊山護国神社にあります。

高杉晋作の墓碑も混ざっている

禁門の変は、西から三手に分かれて京都に進軍した長州藩と、これを迎え撃つ会津藩と薩摩藩を中心とした幕府軍が京都市街で激しく戦いました。

戦いは、最終的に幕府軍の勝利に終わりましたが、この戦いで京都市街の多くの家屋が焼失しました。

特に激しかったのが、京都御所の西側にある蛤御門付近で、来島又兵衛率いる長州藩兵と薩摩藩兵が激突しました。

この時に来島又兵衛は戦死、薩摩藩も西郷隆盛が足を負傷するにいたっています。

禁門の変での長州藩の打撃は大きく、松下村塾出身者では、久坂玄瑞(くさかげんずい)、入江九一(いりえくいち)、寺島忠三郎、有吉熊次郎といった有能な人材が戦死しています。

下の写真に写っているのが、禁門の変で戦死した主だった長州藩士の墓碑です。墓地の中央やや北側にあります。

禁門の変殉難者の墓碑

禁門の変殉難者の墓碑

左から有吉、入江、寺島、久坂、来島の墓碑です。

一番右側にあるのは、高杉晋作の墓碑です。

高杉晋作は、禁門の変には参加していませんし、亡くなったのも京都ではありません。

京都霊山護国神社が、明治維新に貢献した志士たちを祀ることを目的に建てられたことから、高杉晋作の墓碑もあるのかもしれませんね。

高杉晋作のものだけ、他の墓碑よりも新しかったので、後から造ったものか、造り替えたものではないでしょうか。

その他の戦死者

その他の戦死者についても墓碑があり、また、墓地の頂上には、「元治甲子七月十九日戦死者埋骨所」の碑が立っています。

元治元年甲子七月十九日戦死者埋骨所

元治元年甲子七月十九日戦死者埋骨所

京都市街での戦いに敗れた長州藩兵の中には、京都から脱出した者もいましたが、大坂との境にある大山崎で亡くなった者もいました。

久留米の神官真木和泉に率いられた兵たちがそれで、天王山に17人が葬られています。

なお、京都霊山護国神社の詳細については、以下のページを参考にしてみてください。

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