京都市左京区の真如堂境内に新長谷寺(しんはせでら)という小さなお寺が建っています。
新長谷寺は、洛陽三十三所観音霊場の第五番札所です。
創建は平安時代前期で、藤原山蔭(ふじわらのやまかげ)が建立しました。
山蔭が新長谷寺を建立したのは、ある出来事が理由と伝えられています。
亀の恩返し
新長谷寺が建っているのは、真如堂境内の北側です。
小さなお寺なので、真如堂に訪れても気付かない方がいらっしゃるでしょう。
由緒書には、以下のような伝説が記載されていました。
藤原山蔭は、3歳の時に父の高房に連れられて、西国へと向かいました。
その途中、漁師が大亀を殺そうとしている現場に遭遇します。
高房は、それを見て、漁師が大亀を殺そうとするのを止め、海に逃がしてあげました。
翌朝、船に乗って出発しましたが、海が荒れていたため、山蔭が落ちてしまいます。
波が強かったため、誰も助けることができません。
すると、昨日助けた亀が現れ、山蔭を助け、背に乗せて船に連れてきました。
高房は、日頃から信仰している長谷観音のおかげだと、以後、さらに深く帰依するようになったそうです。
時は過ぎ、山蔭は大人となり結婚します。
妻との間には子も生まれ、幸せに暮らしていましたが、ある日、妻が病死してしまいます。
山蔭は、後妻を迎えましたが、彼女は自分の子が生まれてからは、前妻の子を嫌うようになりました。
そんな中、山蔭は、大宰府の長官に任命され、一族を連れて九州へと旅立つことになります。
その旅の途中、後妻が前妻の子を海に突き落としました。
山蔭は、必死に海を探します。
すると、亀が現れ、山蔭の子を助けました。
その亀は、なんと山蔭が子供の時に助けられた大亀でした。
山蔭は、前妻の子と今後一緒に暮らしても、不幸になるだけだと思い、その子を高僧に託し僧侶にしてもらいました。
2度までも大亀に助けられた山蔭は、これは観音様のご加護に違いないと思い、長谷寺十一面観音像を模した像を造り、吉田山のふもとにお堂を建てて祀りました。
これが新長谷寺です。
後に新長谷寺は、明治時代の廃仏毀釈により、真如堂境内に移されました。
藤原山蔭のこの伝説については、今昔物語や平家物語などに掲載されていますが、それぞれで内容が少しずつ違っています。詳しいことは、以下のWEBサイトで解説されていますので、ご覧になってください。
藤原山蔭が創建した吉田神社
新長谷寺が建てられた吉田山は、真如堂の西にあります。
藤原山蔭は、貞観元年(859年)に吉田山に氏神である大和の春日神を勧請(かんじょう)し、吉田神社を創建したことでも有名です。
吉田山付近は、藤原山蔭とは、縁のある地だったわけですね。
吉田神社の境内には、山蔭神社という末社が建っています。
祭神は、もちろん藤原山蔭です。
山蔭は、日本で初めてあらゆる食物を調理調味づけた始祖と伝えられており、包丁、調理、飲食の神と崇められています。
創建されたのは、昭和34年(1959年)で、吉田神社御鎮座1100年大祭を機に全国の調理関係者の協賛により建てられました。
新長谷寺にお参りした後は、吉田神社と山蔭神社にも参拝してはいかがでしょうか。
なお、真如堂の詳細については以下のページを参考にしてみてください。