慶長2年(1597年)に徳川秀忠の娘として生まれた千姫。
彼女と縁のあるお寺が京都市東山区に建っています。
そのお寺は、知恩院です。
秀頼に嫁ぐが豊臣家は滅亡
千姫は、生まれてすぐに豊臣秀頼と婚約し、慶長8年に嫁ぐことになります。
千姫の母は、浅井長政の娘の江(ごう)です。
一方の結婚相手の秀頼の母は、江の姉の淀殿です。
つまり、千姫と秀頼は従兄妹ということになります。現代ではちょっと考えられないですね。
この婚約は、自分の死が近いことを悟った豊臣秀吉が、子の秀頼の行く末を案じて決めたものでした。
豊臣家の次に力を持っていた徳川家との関係を深めることで、秀頼を守ろうとしたのです。
しかし、秀吉の努力の甲斐なく、豊臣家と徳川家は戦うことになります。
その原因となったのが、秀頼が再建した方広寺の鐘楼に刻まれた「国家安康」と「君臣豊楽」という言葉でした。
「国家安康」は徳川家康を呪い、「君臣豊楽」は豊臣家の繁栄を願った言葉だと、家康が難癖をつけてきたのです。
むしろ、天下を取ることを考えていた家康が、豊臣家との戦いの口実を見つけたと言った方がよいかもしれません。
豊臣と徳川の戦いは、慶長19年に始まりました。
この戦いが大坂冬の陣で、最終的に大坂城の外堀を埋めることを条件に両者は和睦しています。
ところが、この和睦も一時的なもので、翌年に大坂夏の陣が起こります。
この戦いは、最初から豊臣家が劣勢でした。
もはや、誰が見ても徳川家の勝利と思われた時、豊臣家の家老の大野治長が、千姫を徳川家に返すことを条件に秀頼と淀殿の助命を嘆願します。
しかし、千姫を徳川家に戻したものの秀頼と淀殿の助命は家康に認められず、2人は家臣共々、大坂城で自害して果てました。
その後、徳川家に戻った千姫は、元和2年(1616年)に本多忠刻と再婚します。
そして、忠刻の死後に出家し、寛文6年(1669年)に70歳でこの世を去りました。
一際目立つお墓
この記事の最初に知恩院が千姫と関係があると述べました。
その理由は、知恩院の墓地に千姫のお墓があるからです。
知恩院のシンボルとも言える大きな三門は、千姫の父の徳川秀忠が建立したものです。
山門をくぐり、境内の奥に進むと墓地があります。
この墓地で、一番大きく目立つお墓が千姫のものです。
もしも千姫が、大坂夏の陣で豊臣秀頼とともに自害していたら、このような立派なお墓は造られていなかったかもしれませんね。
なお、知恩院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。