近代の政治家の中には、幕末維新の動乱をくぐりぬけてきた人物がたくさんいます。
西郷隆盛や大久保利通など、明治時代前期の政治家が、その典型ですね。
明治維新から約70年経った昭和15年(1940年)。
すでに幕末は、歴史の世界となりつつあった時代に西園寺公望(さいおんじきんもち)が亡くなりました。
西園寺公望は、明治時代後期の総理大臣で、最後の元老となった比較的現代に近い近代の政治家といったイメージがあります。
ところが、意外に思えるかもしれませんが、彼も幕末維新の動乱をくぐりぬけてきた政治家の一人だったのです。
新撰組に狙われたことがある
幕末の頃の西園寺公望は、中学生から高校生くらいの年齢でした。
名前から想像できるように彼は公家の出です。
公望は、明治元年(1868年)から翌年まで続いた新政府軍と旧幕府軍が戦った戊辰戦争(ぼしんせんそう)で、新政府軍の主将として各地を転戦しました。
この頃になると新政府軍の方が優勢でしたが、数年前までは幕府も力を持っており、公望は、新撰組から命を狙われたこともありました。
身の危険に気付いた公望は、丹波の寓居に身を潜め、どうにか新撰組の追手から逃れることができました。
その時、彼が隠棲した寓居にあった長屋門が、左京区の詩仙堂近くに建つ野仏庵に今も残っています。
私が野仏庵に訪れた時は、門が閉まっており、拝観することができませんでした。
なお、野仏庵の写真は、「ZauCatsの絶景かな」というWEBサイトの下記ページに掲載されていますので、ご覧になってください。
遊び友達のおかげで命拾い
戊辰戦争も終わった明治2年。
公望が師事していた大村益次郎が暗殺されました。
大村益次郎は、新政府軍を勝利に導いた功労者で、当時、最も優れた司令官と言ってもいい人物でした。
ただ、あまりに無愛想だったため、彼を嫌う者が多く、刺客に襲われ命を落としてしまったのです。
大村益次郎が暗殺された日は9月4日で、この日、公望は、彼から三条木屋町の宿に遊びに来ないかと誘われていました。
ちなみにこの頃、公望は京都に私塾を開いていました。これが後の立命館大学となります。
誘いを受けた公望は、その日、大村を訪ねる予定でした。
彼が、大村に会いに行く途中、昔からの遊び友達の万里小路通房(までのこうじみちふさ)と出あいます。
その時、通房は、公望に「祇園に遊びに行こう」と言いました。
公望は、大村との約束がありましたが、芸者遊びが好きだったので、通房の誘いに応じて祇園に行きました。
もしも、この時、公望が大村の宿を訪ねていたら、彼の人生はそこで終わっていたかもしれませんし、日本の近代史も変わっていたことでしょう。
なお、大村益次郎の暗殺については、以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
上京区の西園寺
最後に西園寺公望と関係のあるお寺をひとつ紹介しておきます。
そのお寺の名は西園寺といいます。
場所は、京都市上京区と北区の境目あたりの寺町通り沿いです。
西園寺は、元仁元年(1224年)に創建されたお寺で、本堂正面には、西園寺公望が書いた額がかかっています。
今もこの額がかかっているのは、万里小路通房のおかげかもしれませんね。