京都府乙訓郡大山崎町の天王山の山頂に「十七烈士の墓」があります。
天王山の史跡というと、羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いの碑が有名ですが、十七烈士の墓も幕末維新の史跡として重要なものです。
蛤御門の変で敗れた長州藩
十七烈士の墓には、その名のとおり17人が埋葬されています。
その17人の中には、幕末の久留米の神官であった真木和泉が含まれています。
元治元年(1864年)7月。
長州藩が軍勢を率いて、京都に乱入してきました。
この事件は、京都御所の蛤御門(はまぐりごもん)付近で、最も激しい戦いが繰り広げられたことから、蛤御門の変とか禁門の変と呼ばれています。
長州藩がこのような暴挙に走ったのは、前年に起こった八月十八日の政変で京都を追放されたこと、蛤御門の変の1ヶ月前に起こった池田屋事件で、たくさんの長州藩の関係者が新撰組に斬られたことが理由です。
この辺りのことについては、以下の過去記事で時系列に沿ってまとめていますので、ご覧になってください。
蛤御門の変は、最終的に長州藩が、薩摩藩や会津藩を中心とする幕府軍に敗れたことで、終結しました。
この蛤御門の変で、長州藩側に加わったのが、真木和泉だったのです。
天王山にたてこもる十七烈士を新撰組が攻撃しようとするが
蛤御門の変の後、長州藩兵は、山口県に敗走します。
しかし、敗走する長州藩兵を幕府軍は無視していません。
真木和泉は、長州藩兵を山口県に逃がすために天王山にたてこもり、幕府軍の追撃を防ぐことにしました。
この時、天王山にたてこもる真木和泉を攻撃したのが、会津藩と新撰組です。
新撰組は、蛤御門の変で手柄を立てようとしていたのですが、陣取った場所が主戦場の京都御所から離れていたため、大した活躍をすることができませんでした。
そのため、天王山では、大活躍をして、その働きを幕府首脳に認めてもらおうと考えていたのです。
7月21日、新撰組が天王山に到着しました。
そして、山頂にたてこもる真木和泉たちに攻撃を開始します。
ところが、新撰組が山頂に駈け上がってみると、真木和泉たち17人は、すでに自害した後でした。
結局、新撰組は天王山でも活躍することができず、真木和泉たち17人の遺体を中腹の宝積寺(ほうしゃくじ)に埋葬しました。
なお、この攻撃で、大山崎町のいくつかのお寺や神社が炎上しました。
宝積寺と山頂の2つの墓
幕府側によって埋葬された17人の墓には、今も宝積寺の境内に「殉国十七士墓」と刻まれた大きな石が置かれています。
その後、十七烈士の墓には、多くの参拝者が訪れたため、幕府によって屍は竹林の中に埋めなおされます。
そして、江戸幕府が倒れた明治元年(1868年)に十七烈士の屍は、天王山の山頂へと移されました。
下の写真は、山頂にある十七烈士の墓です。
中心に石碑が置かれ、それを囲むように真木和泉たち17人の墓があります。
石柱には、十七烈士それぞれの姓名が刻まれています。
蛤御門の変で、京都市中心部のたくさんの家屋が炎上しました。
そして、その影響が、京都府と大阪府の境に位置する大山崎町にまで及んだことを十七烈士の墓が今に伝えています。
なお、十七烈士の墓は、天王山山頂の酒解神社(さかとけじんじゃ)付近にあります。