京都市下京区の地下鉄四条駅または阪急烏丸駅から南西に歩いて5分ほどの場所に日本で唯一の商売繁盛の神社である繁昌神社が建っています。
日本で唯一というのですから、商売繁盛を祈願するなら繁昌神社に参拝しておいた方が良いでしょう。
繁昌神社の成り立ち
繁昌神社は、延喜年間(901-922年)に安芸の宮島より市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)、田心姫命(たごりひめのみこと)、湍津姫命(たきづひめのみこと)を藤原繁成の邸宅にある功徳池(くどくいけ)に勧請したのが始まりとされています。
その後、功徳院という真言宗のお寺が管理しましたが、明治維新の神仏分離によって現在の繁昌神社にいたったとか。
繁盛神社には、もうひとつ別の成り立ちも伝えられています。
その昔、長門前司の娘の葬送の時に亡骸が邸に戻り動かなくなりました。
そこで、その娘の亡骸をその地に葬り祀ったのが繁昌神社の始まりというものです。
どうして日本で唯一の商売繁盛の神社なのか?
ところで、どうして繁昌神社が、日本で唯一の商売繁盛の神社なのでしょうか。
商売繁盛のご利益があると伝えられている神社は、日本中どこにでもありますよね。
例えば、京都なら伏見稲荷大社や恵美須神社なんかも商売繁盛のご利益があると言われており、たくさんの方が商売繁盛の祈願をしに参拝しています。
そこで、ある仮説を考えてみました。
伏見稲荷大社は、秦伊呂具(はたのいろぐ)が餅を的に矢を射て遊んでいたところ、餅が白鳥になって飛び立ち、山の峰に止まり、そこに稲が生じたことから稲生(いなり)が稲荷になったと伝えられています。
その後、伊呂具の子孫の秦中家忌寸(はたのなかいえのいみき)が杉を植えて、五穀豊穣を占いました。すなわち、杉の根が付けば豊作、枯れれば不作ということです。
このように伏見稲荷大社は、もともとは五穀豊穣のご利益を授かると信仰されていたのが、後に商売繁盛など様々なご利益を授かることができると信仰されるようになりました。
また、恵美須神社は、栄西が宋から帰国する際、海上で暴風雨に遭い、戎神に祈願したところ、無事に難を逃れることができたため、帰国後、建仁寺の鎮守社として創建されたのが始まりと言われています。
その後、戎神が商売の道を開いた神様ということで、商売繁盛を祈願するようになったそうです。
このように伏見稲荷大社も恵美須神社も、もともとは別のご利益があると信仰されていたのが、いつからか商売繁盛のご利益があると信仰されるようになりました。
なので、伏見稲荷大社や恵美須神社のように他の神社も最初から商売繁盛のご利益があったわけではなかったから、繁昌神社だけが日本で唯一の商売繁盛の神社ということになるのではないかということです。
「日本で唯一」とは、実はそんなに複雑な意味ではないのでは?
なんとなく、上の仮説に納得してしまいそうですが、それだったら、繁昌神社も日本で唯一と言えなくなってしまいます。
この記事の最初の方の成り立ちの中で、娘の亡骸が動かなくなり、そこに祀ったのが繁盛神社の始まりだと紹介しました。
娘の亡骸を葬る時、班女塚という塚が造られました。
その名から、当初は班女神社と称していたのですが、それがいつしか繁昌神社と呼ばれるようになったそうです。
この言い伝えについては以下の3つのWEBサイトで解説されていますので、詳しく知りたい方はご覧になってください。
もともと班女神社だったということは、商売繁盛のご利益があると信仰されるようになったのは、繁昌神社という名で呼ばれるようになってからのことだと考えられます。
すると繁昌神社も伏見稲荷大社や恵美須神社と同じく、最初から商売繁盛のご利益があったとは言えなくなり、上記の仮説は成り立たなくなってしまいます。
これでますます「日本で唯一」の意味がわからなくなってきました。
いろいろ調べたり考えたりしているうちに、もしかしたら深く考えすぎているのではないかという思いが頭をよぎりました。
日本で唯一。
それは、単に「繁昌」や「繁盛」という言葉が社名に入った神社は、日本全国で京都市下京区の繁昌神社だけということではないでしょうか。
さっそく、グーグルで「繁昌神社」と「繁盛神社」で検索してみました。
するとどちらで検索してみても、100位以内には、京都市下京区の繁昌神社しか出てきません。
やはり、「日本で唯一」とは、繁昌という言葉が社名に入る神社は、京都市下京区の繁昌神社だけという意味なのかもしれません。
これで納得はしましたが、実際はどうなのかはわかりません。
「日本で唯一」の意味がわかったら、このブログで紹介したいと思います。
なお、繁昌神社の詳細については、以下のページを参考にしてみてください。