慶応2年(1866年)1月21日。
この日、現在の京都市上京区で明治維新の実現を加速させる重要な契約が締結されました。
その契約は、後に薩長同盟とか薩長連合と言われるようになります。
朝敵となった長州藩
薩長同盟は、簡単に言うと薩摩藩と長州藩が手を結んだということです。
長州藩は、文久3年(1863年)8月まで、これからの政治は朝廷を中心として行うべきだと主張し、京都政界で活躍していました。
しかし、その活動は過激なもので、時には孝明天皇の名を勝手に使って、自分達に有利なように政局を動かそうとすることもありました。
このような強引なやり方に怒った孝明天皇は、長州藩を御所の警護から解任し、京都から追放しました。
京都政界から追放された長州藩は、自分達の政治的立場を回復しようと1年後に藩兵を率いて上洛します。
そして、あろうことか京都御所に向かって発砲したのです。
この長州藩の暴挙は、蛤御門の変と呼ばれ、薩摩藩と会津藩によって鎮圧されました。
この事件以降、長州藩は完全に朝敵となってしまったのです。
薩摩藩と長州藩が歩み寄った交換条件
蛤御門の変で負けた長州藩は、イギリス、アメリカ、ドイツ、オランダの四カ国艦隊とも戦争し惨敗しています。
国内外問わず、敵だらけの長州藩。
もはやこれまでかと思われましたが、高杉晋作などの活躍でなんとか生き延びることができました。
長州藩を滅ぼしてはいけないと考えていた人物は、藩外にも多くいました。
その中の一人が坂本竜馬です。
竜馬は、日本で元気のある薩摩藩と長州藩が手を結ぶことが、これからの日本の政治にとって大切なことだと考えていました。
そこで、竜馬は慶応元年閏(うるう)5月に長州藩の桂小五郎と薩摩藩の西郷隆盛を下関で会わせるように取り計らいます。
しかし、この会合は、西郷隆盛のドタキャンによって実現しませんでした。
これで、両者の関係修復は不可能かと思われたのですが、竜馬は桂に対してある提案をします。
長州藩は、これから幕府と戦争することになっていましたが、武器を持っていませんでした。
当然、外国とも仲の悪い長州藩に武器を売る国はありません。
そこで、竜馬は、彼が経営する亀山社中が薩摩藩名義で外国から武器を買い、それを長州藩に横流しすることを提案したのです。
もちろん、これでは長州藩が一方的に得するだけ。
薩摩藩にとっても得する条件がなければ、交渉は成立しません。
この時、薩摩は不作で米が不足していました。
その不足を長州藩が米を提供して補えば、薩摩藩も納得します。
この交換条件によって、両者は少し歩み寄ることになりました。
京都で秘密同盟成立
武器と米の交換条件で、歩み寄りを見せた両藩でしたが、まだまだお互いの関係は険悪。
この険悪な関係を完全に消滅させるために竜馬は、薩摩藩と長州藩の会合の場を設定します。
場所は、京都市上京区の薩摩藩邸。
慶応2年1月10日に桂小五郎や品川弥二郎ら長州藩士が薩摩藩邸に入ります。
長州藩も薩摩藩も、やはり心の底ではお互い歩み寄る事を拒否しており、10日間全く話は進みませんでした。
そして、1月20日に坂本竜馬が桂小五郎らが宿所としている薩摩藩家老の小松帯刀(こまつたてわき)の邸に訪れます。
桂は竜馬に全く話が進まないので長州に帰ると告げました。
しかし、竜馬は薩長同盟が成立しなければ長州藩が滅びしてしまうと説得し、桂が長州に帰るのを思いとどまらせます。
そして、薩摩藩邸の西郷を訪れ、薩摩藩から小松邸に出向いて、薩長同盟の話を切り出すように頼みました。
翌日の1月21日、西郷は竜馬の言うとおりに小松邸に出向き、桂に話を切り出して、遂に両者は薩長同盟に合意したのです。
なお、この後、竜馬は三吉慎蔵に薩長同盟締結の報告をするために伏見の寺田屋に行きましたが、そこで、伏見奉行所に捕えられそうになっています。
薩摩藩邸跡と小松帯刀寓居跡
現在、薩長同盟の舞台となった薩摩藩邸跡は、同志社大学今出川キャンパスとなっています。
地下鉄今出川駅近くの門には、薩摩藩邸跡の石碑が建てられています。
また、薩長同盟の合意がなされた小松帯刀の邸宅は、現在の同志社大学新町キャンパス辺りだったのではないかと「きまぐれ日記」さんの以下の記事に書かれています。
上記記事では、新町キャンパス内の近衛邸跡の石碑付近が小松帯刀邸跡と推測されていますね。
他にも小松帯刀寓居跡の石碑が一条戻橋近くにあります。
この石碑は、2008年にフリーの歴史地理史学者の中村武生氏が建てたものです。
一条戻橋から100メートルほど東に行った場所にあります。
中村氏はブログの中で、「当地付近は千年におよぶ、たえまない重要な歴史の舞台地であった」と述べられています。詳細は以下の記事をご覧になってください。
なお、各史跡の地図は以下をご覧ください。