観光や旅行で京都に訪れた時に京都らしさを感じるもののひとつとして挙げられるのが鴨川。
三条大橋や四条大橋から鴨川の流れを見ると京都に来た実感が湧いてくるという方も多いのではないでしょうか。
京都らしさを感じる川は、鴨川の他にもいつくかあります。
鴨川のやや西にある木屋町通に沿って流れている高瀬川もそのひとつですね。
豪商・角倉了以によって開かれた高瀬川
高瀬川は、河原町二条から南に約11.1kmの長さの運河です。
水深は膝下よりも浅いですね。
見るからに人工的に造られた川といった感じです。
高瀬川は、慶長16年(1611年)に豪商の角倉了以(すみのくらりょうい)が開削したのが始まりです。
了以が高瀬川を開削した理由は、豊臣秀頼が方広寺の大仏を再建するために物資の輸送が必要だったからです。
そして、江戸時代には、高瀬川は大坂から京都への物資の輸送手段として欠かすことのできない運河となります。

高瀬川に浮かぶ高瀬舟
大坂からの物資は淀川から伏見に運び込まれ、そこから高瀬舟に積みかえられて京都まで運ばれました。

現在の伏見港付近の景色
高瀬川は、江戸時代の京都の人々の生活を支える運河だったわけですね。
瑞泉寺と豊臣秀次
高瀬川開削から遡ること16年。
豊臣秀吉に対する謀反の罪で高野山で謹慎していた豊臣秀次が、切腹を命じられ自害しました。
秀次自害の理由には、石田三成の陰謀、秀次の非道な行い、秀吉に後継ぎの秀頼が誕生し甥の秀次が邪魔になったなど諸説あります。
秀次の首は、すぐに三条河原に曝され、子供も含めて一族約30人が、その場で処刑されました。
そして、その地に「秀次悪逆塚 文禄四年七月十四日」と刻まれた石塔が建てられ、当時の人々は処刑のあまりの凄惨さと秀吉の権力の恐ろしさからそれを畜生塚と呼び、近づかなかったそうです。
ただ、僧の順慶だけが、当地に草庵を結び、秀次一族の菩提を弔ったと伝えられています。
時は再び16年後の慶長16年。
角倉了以が高瀬川開削にあたって、畜生塚付近を訪れた時にその荒廃した姿を見てお寺の建立を決意します。
創建されたお寺は、秀次の法名である瑞泉院に因み瑞泉寺と名付けられました。

豊臣秀次の墓所がある瑞泉寺
瑞泉寺は、豊臣秀吉と縁のある方広寺と秀次の邸宅だった聚楽第に使われていた材木を用いて建立されました。
今でも、瑞泉寺の境内には、豊臣秀次とその一族の墓所があります。
もしも、角倉了以が高瀬川を開削しなければ、豊臣秀次は供養されず、今も木屋町通の下に秀次一族の遺体が埋もれていたかもしれません。
なお、瑞泉寺の詳細については下記のページを参考にしてみてください。