幕末の京都の治安を守った新撰組を代表する事件と言えば、元治元年(1864年)に起こった池田屋事件ですね。
この時、長州藩の浪士たちを斬って、京都放火計画を未然に防いだわけですが、その後に長州藩が報復とばかりに藩兵を率いて上洛し、京都で市街戦が繰り広げられました。これが蛤御門の変です。
この2つの事件の後、新撰組は新たに隊士を増やすために江戸から有望な人材をスカウトしてきました。
その中の一人が伊東甲子太郎(いとうかしたろう)です。
新撰組乗っ取り計画
伊東甲子太郎は、本名を鈴木大蔵(すずきおおくら)と言います。
江戸三大道場のひとつである千葉道場で北辰一刀流を学んだ剣の達人です。
頭も良かったそうで、勤王家としても知られていました。ここで勤王とは、簡単に言うと天皇を中心とした政治を行おうというものです。
新撰組が幕府側の警察組織だったことを考えると伊東の思想は真逆のもので、最初から新撰組の方針に賛同して入隊したとは思えません。
つまり、伊東は入隊した時から新撰組を乗っ取ろうと計画していた可能性があります。
そして、元治元年11月に伊東は上洛し、その年が甲子年だったことから、伊東甲子太郎と名乗るようになりました。
新撰組を現代企業で例えると
さて、この頃の新撰組を現代企業で例えるとどうなるのでしょうか?
新撰組の局長は近藤勇(こんどういさみ)で、副長が土方歳三(ひじかたとしぞう)です。企業で例えると社長と副社長のようなものですね。
近藤は、江戸で天然理心流の道場を開いていました。剣術道場の中では、それほど有名ではなく、現代で言うと中堅私立大学といった感じです。
新撰組は、この中堅私立大学出身者を中心として創業したベンチャー企業のようなものですね。
そのベンチャー企業の中にも有名私立大学出身者が混ざっていました。それが、北辰一刀流の使い手の藤堂平助です。
ベンチャー企業も池田屋事件や蛤御門の変で知名度が上がり、売上も伸びてきました。そんな時、証券取引所に上場することも視野に入れ、人員を増やすことを考えます。
しかし、近藤にはコネがなかったため、一流大学出身の藤堂のコネを使って江戸から有望な人材をスカウトします。それが、藤堂の先輩の伊東だったのです。
伊東は江戸でそれなりに名の知れた経営コンサルタントだったので、近藤は参謀クラスとして伊東を雇いました。
伊東を雇って2年半の間、新撰組は業績を上げ、いよいよ証券取引所に上場しようかという矢先の慶応3年(1867年)3月に伊東が社内で蓄積したノウハウを持ち出し、社員を引き抜いて独立しました。
社長の近藤も薄々は、伊東の思惑を知っていたようです。
伊東独立の半年ほど前に、ライバル企業の長州藩に幕府の家宅捜索が入った際、伊東が長州藩と何やら不穏な行動を共にしているという噂があったからです。
しかし、創業メンバーの藤堂平助と斎藤一まで引き抜かれるとは、思いもよらないことでした。
そして、伊東らは、新撰組から独立した後、孝明天皇のお墓を守るための御陵衛士(ごりょうえじ)という身分を与えられ、東山区の高台寺月真院にテナントを借り、警備会社を創業しました。
また、新撰組も幕府直参に取り立てられ、証券取引所への上場を果たし、下京区の不動堂村に自社ビルを建てました。
油小路七条の決闘
新撰組には、局中法度(きょくちゅうはっと)という厳しい掟があります。
その中には、「局を脱するを許さず」という項目が書かれています。
局中法度に背いた隊士は死をもって償わなければならず、それは幹部でも例外ではありません。
現に新撰組結成時のメンバーで総長でもあった山南敬助が脱走した際も切腹させられています。
当然、新撰組としては局中法度に背いた御陵衛士を許すわけにはいきません。
そして、新撰組が御陵衛士の処分の機会を窺っていた中、慶応3年11月10日に、御陵衛士として引き抜かれた斎藤が新撰組に戻ってきて、伊東が近藤を暗殺しようとしていることを知らせます。
そう、斎藤は、近藤が伊東のもとに送り込んだスパイだったのです。
そこで、近藤は先に伊東を暗殺するために、11月18日に一杯飲みに行こうと誘います。
すると伊東もひとりで近藤の行きつけの店に現れます。伊東は、お酒を飲み、気分よく酔いながら家路に付こうとした時に、曲がり角で待ち伏せていた新撰組隊士によって暗殺されました。
伊東の遺体は、そのまま油小路七条に放置されます。
それは、御陵衛士の他のメンバーが伊東の遺体を引き取りに来たところを全員まとめて斬るためです。
その罠にかかって御陵衛士のメンバーが伊東の遺体を引き取りに来ます。
そこで、藤堂など御陵衛士の数人が新撰組に斬られますが、篠原泰之進などその場を逃げて一命を取り留めた者もいました。
ちなみに、篠原は薩摩藩邸に逃げ込み、後日、近藤を待ち伏せし鉄砲で狙撃しましたが、失敗しています。この時、近藤は右肩を負傷しました。
伊東甲子太郎は、新撰組入隊から御陵衛士結成まで緻密に計画していたのでしょうが、最期はあまりにも不用心でしたね。
もしかして、一人で近藤に会いに行ったことも何か緻密な計画があったのでしょうか?
それは、今となってはわかりません。
伊東甲子太郎については、誠斎伊東甲子太郎と御陵衛士というサイトで詳しく解説されています。伊東甲子太郎という歴史上それほど有名でない人物をこれほど調べているサイトは他にはありませんね。
2013年7月14日追記:上記サイトは閉鎖しています。
なお、御陵衛士屯所跡は、京阪電車の祇園四条駅から東に歩いて10分ほどの場所にあります。
詳細は下記のページを参考にしてください。