京都の玄関口である京都駅につくと見える五重塔は東寺のものです。これを見ると京都に来た実感がわくという方も多いのではないでしょうか?
ところで、京都に東寺があるのに西寺がないのはどうして?
と、思われる方もいらっしゃるのではないでしょうか?
昔はあった西寺
実は、京都には東寺の他にも西寺がありました。
桓武天皇が平安京に都を定めた後、国家・王城鎮護を目的として都の入口である羅城門の東と西に官寺が置かれました。
それが、東寺と西寺です。
東寺は、嵯峨天皇から弘法大師空海に下賜され、真言密教の根本道場として発展していきます。
一方の西寺も真言宗の僧・守敏が住持をつとめていました。
空海と守敏はライバルだったのですが、この二人は天長元年(824年)に神泉苑で雨乞い対決をします。
この年は、干ばつがひどく都には全く雨が降りませんでした。
その原因は、守敏が水の神である龍神を捕えて水瓶に閉じ込めてしまったからです。そこで、空海は雨乞いを行い、守敏が捕えることができなかった天竺にいる善女龍王を都に呼び寄せ雨を降らし、人々を救ったのです。
これをおもしろく思わない守敏は、呪力を使って空海を矢で襲います。
空海も呪力で対抗し、襲いかかる矢を全て迎撃します。しかし、空海は守敏の射た矢によって倒れたという噂を都に流します。
この噂を信じた守敏が油断をしている隙をついて空海は呪力で守敏を倒し一件落着となるわけです。
そして、守敏がいなくなった後、西寺も衰退しなくなってしまったと言われています。
しかし、これは物語なので、史実とは異なるでしょう。
なぜ西寺が衰退したのか?
東寺が平安時代から今も変わらずに同じ場所に建っているのは、東寺には多くの庇護者がいたからです。
源頼朝をはじめ、豊臣秀吉や徳川家康など時の権力者の支援を受け、東寺は再建を繰り返し存続してきたわけです。東寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。
一方の西寺の方はどうだったかというと、あまり庇護者がいなかったようです。
西寺は、正暦元年(990年)に火災に遭うなど早い時期から衰退していき、天福元年(1233年)には五重塔も焼失したそうです。
もしも東寺に庇護者がいなければ、西寺のように衰退し、あの五重塔を見ることはなかったのかもしれません。
どれだけ時が過ぎても助けてくれる人がいたというのは、空海の仁徳によるものなのでしょうね。