
第1回京都博覧会の会場となった建仁寺、知恩院、西本願寺
幕末に長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、京都市中では多くの家屋が焼失しました。 さらに明治になって首都が東京に遷ったことにより、京都はこのままさびれていくだけかと思われました。 しかし、長州藩士の槇村正直(まきむらまさなお)が、明治元年(1868年)より権大参事(ごんのだいさんじ)となったことで京都の復興が進み、明治5年には第1回京都博覧会が催され、京都に活気が戻り始めました。
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幕末に長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、京都市中では多くの家屋が焼失しました。 さらに明治になって首都が東京に遷ったことにより、京都はこのままさびれていくだけかと思われました。 しかし、長州藩士の槇村正直(まきむらまさなお)が、明治元年(1868年)より権大参事(ごんのだいさんじ)となったことで京都の復興が進み、明治5年には第1回京都博覧会が催され、京都に活気が戻り始めました。
京都には、縁結びのご利益を授けてくれる神社がいくつもあります。 その中には、参拝の作法が決まっているところもあり、下鴨神社の相生社(あおいおいのやしろ)の御神木である連理の賢木(れんりのさかき)も、女性は右から男性は左から回らないといけないとされています。 これは、日本神話の国生み神話が由来です。
慶長3年(1598年)に催された醍醐の花見は、豊臣秀吉の最後の派手な行事となりました。 正室の北政所や側室たちを連れ、総勢1300人で花見をしたということですから、太閤秀吉の栄華がよくわかる話です。 また、秀吉は、応仁の乱(1467年)で、ほとんどの建物を失った醍醐寺を花見を機に再興し、世界遺産に登録されるほどのお寺にしています。 だから、醍醐寺にとって秀吉は大恩人なのですが、一方で、彼が催した醍醐の花見がきっかけとなって牢屋に入れられた人物もいました。 その人物は、江戸時代の絵師喜多川歌麿です。
京都に都が遷されたのは延暦13年(794年)です。 でも、平安時代から現代までずっと残っている建物は少ないです。 その少ない平安時代から残る建物ですが、京都の南の伏見区と宇治市に行けば見られます。 醍醐寺、平等院、宇治上神社には、約1000年前に建立された建物が現存しています。
8月6日の夕方に京都市左京区の吉田神社に参拝した後、西に約25分歩き下鴨神社にも参拝しました。 この日は立秋の前日で、下鴨神社では、夏越神事(なごしのしんじ)が催されます。 今回の参拝は、その夏越神事を見ることが目的であります。
5月下旬に京都市東山区の大谷本廟にサツキを見に行った後、清水寺を訪れました。 清水寺は、清水の舞台が有名で、いつも大勢の旅行者や観光客で賑わっています。 近年は、海外からお越しの方が増加して大混雑することから、清水寺にあまり行ってなかったのですが、サツキがそろそろ咲く頃だなと思い、久しぶりに訪れることにしました。
5月15日に京都市左京区の河合神社に参拝した後、下鴨神社を訪れました。 この日は、毎年、下鴨神社で葵祭の神事が行われます。 午前11時40分頃に路頭の儀の行列が下鴨神社に到着した後、社頭の儀が行われ、その一環として、午後1時15分から糺(ただす)の森の馬場で、走馬(そうめ)の儀が執り行われます。 今回、下鴨神社に訪れたのは、走馬の儀を見ることが目的であります。
4月末に京都市下京区の東本願寺にツツジを見に行った後、西に約7分歩き、西本願寺に参拝しました。 西本願寺も、東本願寺と同じように堀端にツツジがたくさん植わっており、この時期に花を咲かせます。
3月中旬に京都市下京区の東本願寺に参拝した後、西に約7分歩き、西本願寺にも参拝しました。 西本願寺も、東本願寺と同じく浄土真宗のお寺です。 境内の広さやお堂の配置もよく似ており、区別するのが難しいですね。
京都市中京区に建つ二条城は、広大な敷地を持っており、見どころがいっぱいあります。 建物だと二の丸御殿の中は一度は拝観しておきたいですね。 また、城内の様々なところに趣の異なる庭園がいくつも設けられており、季節ごとに違った景色を見せてくれます。 今回は、二条城の春夏秋冬を紹介します。