近代一覧

第1回京都博覧会の会場となった建仁寺、知恩院、西本願寺

幕末に長州藩が京都御所を攻撃する蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こり、京都市中では多くの家屋が焼失しました。 さらに明治になって首都が東京に遷ったことにより、京都はこのままさびれていくだけかと思われました。 しかし、長州藩士の槇村正直(まきむらまさなお)が、明治元年(1868年)より権大参事(ごんのだいさんじ)となったことで京都の復興が進み、明治5年には第1回京都博覧会が催され、京都に活気が戻り始めました。

琵琶湖疏水の力で日本で最初に路面電車を走らせた京都

日本で最初に路面電車が走ったのは東京だと思われがちですが、それはまちがいで正しくは京都です。 日本初の路面電車は、京都電気鉄道が明治28年(1895年)に七条停車場から竹田街道を南下する伏見線を走らせました。 東京よりも早く京都が路面電車を走らせることに成功したのは、当時の京都の事情を知るとなるほどと納得します。

娯楽を目的に誕生した新京極通

京都市中京区の地下鉄京都市役所前駅を出て寺町通を南に約5分歩くと、その東側に三条通から四条通にかけてアーケード街の新京極通があります。 通り沿いには、お土産物屋さん、ドラッグストア、服屋さん、飲食店、ゲームセンター、映画館、パチンコ店など、買い物や娯楽を楽しむための施設が軒を連ねていますね。 それもそのはずで、新京極通は誕生した時から娯楽を目的としており、今もその目的通りに栄えています。

河原町通の拡幅で存続が決まった一之船入

鴨川に沿って北から南に流れる高瀬川は角倉了以によって開削され、江戸時代の京都の物流を支える重要な運河として機能しました。 しかし、京都の近代化に伴い舟運は廃れていき、高瀬川の存在意義も次第に失われていきます。 大正時代には、舟運が終了し高瀬川が利用されなくなり、もはや不必要な運河となりました。 でも、高瀬川は現在まで存続し、その北端には江戸時代の景観を今に伝える一之船入(いちのふないり)も残っています。

京都の雛人形は男雛と女雛が左右反対

3月3日の桃の節句で飾られる雛人形。 飾る時にどっちだったかなと考えてしまうのが、男雛と女雛の配置です。 男雛が向かって右だったか、それとも左だったか。 正しい方がわからずネットで調べて、男雛が向かって左だとわかるのは、この時期の風物詩ですよね。 でも、京都では、男雛を向かって右に置いていることもよくあります。

明治になって再建された豊国神社

京都市東山区に建つ豊国神社(とよくにじんじゃ)は、豊臣秀吉を祀っています。 慶長3年(1598年)に秀吉が亡くなると、遺体は、彼の遺命により阿弥陀ヶ峰の中腹に埋葬されました。 そのふもとの豊国廟太閤坦(ほうこくびょうたいこうだいら)には、80余りの廟社が造営され、後陽成天皇から正一位の神階と豊国大明神(とよくにだいみょうじん)の神号を賜っています。 これが豊国神社の創建ですが、その後、荒廃し、明治になって再建されています。

昭憲皇太后の夢枕で坂本竜馬が語った言葉を刻む京都霊山護国神社の墓碑

京都市東山区の霊山(りょうぜん)に鎮座する京都霊山護国神社は、ペリー来航以降の幕末殉難者から第2次世界大戦までの英霊を祀っています。 明治元年(1868年)に我が国最初の官祭招魂社として創建され、墓地には、坂本竜馬のお墓があることは有名です。 そのお墓の脇には、明治37年12月に建立された墓碑があり、碑文には、明治天皇の皇后である昭憲皇太后の夢枕に坂本竜馬が現れた時の言葉が記されています。

有栖川宮旧邸 有栖館の特別公開に行ってきた・2024年

3月下旬に六角堂に桜を見に行った後、烏丸通を北に約15分歩き、京都市上京区に建つ有栖川宮旧邸 有栖館の特別公開を見に行ってきました。 有栖館は、普段は非公開なのですが、2024年3月23日から29日まで、平安女学院の創立150周年記念公開が行われています。 京都旅屋さんのブログで、拝観料が無料だということを知り、この機会に見ておかねばと思い訪れた次第であります。