明治になって白峯神宮に祀られた淳仁天皇
前回の記事では、明治天皇によって崇徳天皇が白峯神宮に祀られたことを紹介しました。 白峯神宮には、崇徳天皇の他にもう1柱、祭神が祀られています。 その祭神は淳仁天皇で、明治6年(1873年)に白峯神宮に祀られることになりました。
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前回の記事では、明治天皇によって崇徳天皇が白峯神宮に祀られたことを紹介しました。 白峯神宮には、崇徳天皇の他にもう1柱、祭神が祀られています。 その祭神は淳仁天皇で、明治6年(1873年)に白峯神宮に祀られることになりました。
長寛2年(1164年)8月26日に保元の乱に敗れ、讃岐に島流しとなった崇徳上皇が亡くなりました。 その崇徳上皇の御霊が再び京都に戻ってきて京都市上京区の白峯神宮に祀られたのは、それから約700年も経った慶応4年(1868年)のことでした。 なぜ、こんなに時が過ぎてから崇徳上皇の御霊が京都に戻ってきたのでしょうか。
元弘の変(1331年5月)で、後醍醐天皇の討幕計画が鎌倉幕府に漏れたことで、関係者の日野俊基や文観(もんかん)などの僧侶が、次々に捕えられました。 討幕計画が幕府の知るところとなったのは、天皇の側近の吉田定房の密告によるもの。 吉田定房としては、討幕計画の首謀者が日野俊基であると幕府に知らせ、後醍醐天皇の地位の保全をはかったわけですが、8月になって幕府は後醍醐天皇の遠島、護良親王(もりながしんのう)の死罪、後醍醐天皇側の大覚寺統と帝位を争っている持明院統の量仁親王(かずひとしんのう)を御位につけることを決定します。 この幕府の行動を素早く察知した後醍醐天皇は、8月24日の夜に...
正中元年(1324年)に後醍醐天皇の討幕計画が事前に漏れてしまい、関係者が六波羅探題に次々と捕えられる正中の変が起こりました。 最終的に正中の変の責任は、日野資朝(ひのすけとも)が一身に背負って、佐渡に島流しになったことで決着しました。 これで、平穏な日々が戻ってくるかに思えましたが、後醍醐天皇の討幕の意思は変わることがなく、この後も様々な計画を立てて討幕へと向かっていきます。
蒙古襲来があった鎌倉時代中期以降、幕府の信用が悪化していきます。 幕府のために蒙古軍と戦った御家人たちに、恩賞として分け与える土地がなかったことがその理由です。 御家人たちの不満は、他にもありました。それは、幕府の政務を担当していた北条家の権力が強大化していったことです。 窮乏する御家人たちと違い、北条家だけ栄える状況に人々の不満が募るのは当然のこと。 さらに元亨元年(1321年)には、京都で台風、水害、地震といった天変地異が相次ぎ、庶民たちの暮らしも苦しくなっていきます。 加えて、元亨2年に東北で蝦夷が反乱を起こし、鎌倉幕府への不満が加速していきました。 ...
9月は萩の花が咲く季節。 萩の花を求めて、京都に訪れる方は、それほど多くはありませんが、気候的に散策しやすい時期なので、この時期の京都観光の際は、萩の名所を訪ねると良いのではないでしょうか。 9月中旬。 京都市上京区の梨木神社(なしのきじんじゃ)に萩の花を見に行ってきました。
神社にお参りに行くと、様々な動物が祀られていることに気づきます。 サル、ウシ、キツネなど、その神社によって違いはありますが、多くの神社で動物を祀っていますね。 ところで、こういった動物たちと神社は、一体どういう関係にあるのでしょうか。 今回の記事では、動物たちがそれぞれの神社に祀られている理由を調べてみたので、紹介します。
多紀理比売命(たぎりひめのみこと)、多岐津比売命(たぎつひめのみこと)、市岐嶋比売命(いちきしまひめのみこと)をあわせて宗像三女神(むなかたさんにょしん)といいます。 宗像三女神には、商売繁盛、家内安全、芸事上達、金運などのご利益があります。 日常生活にとって、ありがたいご利益が多いですね。 この宗像三女神を祀っている神社が京都御苑の中に2つあります。 ひとつは、宗像神社で、もうひとつは厳島神社です。
毎年旧暦の七夕になると開催される京の七夕。 2013年は、8月3日から12日までです。 京の七夕は、主に堀川会場と鴨川会場でいろいろな行事が催されます。 特に堀川はたくさんの人で賑わいます。 何と言っても、ここでは、とてもきれいな光の天の川を見ることができますからね。
京都には、不思議な町名がいくつもあります。 どうしてこのような変わった町名にしているのかと思ってしまいますが、調べてみれば、いろいろと理由があるんですよね。 京都市上京区にも変わった町名がいくつもあります。 如水町(にょすいちょう)、甲斐守町(かいのかみちょう)などですが、これらの町名は、豊臣秀吉がこの辺りに造営した聚楽第と関係があります。