京都市山科区にある佐治城碑
その昔、今の滋賀県甲賀郡に佐治氏という豪族が住んでいました。 居城としていたのは佐治城で、代々この城を守ってきました。 しかし、天正13年(1585年)に佐治城は落城、城とともに佐治氏も滅亡しました。
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その昔、今の滋賀県甲賀郡に佐治氏という豪族が住んでいました。 居城としていたのは佐治城で、代々この城を守ってきました。 しかし、天正13年(1585年)に佐治城は落城、城とともに佐治氏も滅亡しました。
京都には、不思議な町名がいくつもあります。 どうしてこのような変わった町名にしているのかと思ってしまいますが、調べてみれば、いろいろと理由があるんですよね。 京都市上京区にも変わった町名がいくつもあります。 如水町(にょすいちょう)、甲斐守町(かいのかみちょう)などですが、これらの町名は、豊臣秀吉がこの辺りに造営した聚楽第と関係があります。
日本の大泥棒を想像した時にすぐに思いつくのは、ねずみ小僧と石川五右衛門ではないでしょうか。 ルパン三世という意見もありそうですが、歴史の舞台に登場するのは上記2人ですね。 このうち京都と関係があるのが石川五右衛門です。
織田信長は、比叡山を焼き討ちしたり本願寺と長年にわたって争ったりと、宗教弾圧を行った事で有名です。 神をも恐れない人物、古い体制を壊して新時代を創造する人物、織田信長にはそういった印象がありますね。 でも、信長が全面的に宗教を否定していたのかというと、そんなこともなかったようです。
京都市北区の大徳寺に高桐院という塔頭(たっちゅう)が建っています。 創建は、慶長6年(1601年)で、建立したのは、細川忠興(ほそかわただおき)です。 境内には、忠興とその妻のガラシャの墓があります。
京都市東山区に正面町という地名があります。 京都にはユニークな地名がいくつもありますが、正面町もなかなかのものです。 もちろんあるものの正面に位置しているから正面町と言われているわけです。 で、正面町の前にあるものは一体何なんでしょうか。
「洞ヶ峠(ほらがとうげ)をきめこむ」という言葉があります。 この言葉は、有利な方に付こうと思って様子をみていることを意味します。 その語源は、天正10年(1582年)に羽柴秀吉と明智光秀が戦った山崎の戦いにまでさかのぼります。
天正10年(1582年)。 本能寺で、主君織田信長を討った明智光秀は、その後、中国地方から素早く戻ってきた羽柴秀吉と天王山で戦います。 この戦いは、山崎の戦いと呼ばれ、光秀が秀吉に敗れたことで決着しました。
京都府乙訓郡大山崎町には、天王山があります。 「天下分け目の天王山」という言葉は、大山崎町の天王山が語源で、天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉と明智光秀が雌雄を決した地として知られています。 山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、その後、次々とライバルを打ち破っていき、やがて天下統一を果たすことになります。 この羽柴秀吉の天下統一の第一歩となった山崎の戦いの解説を記した「秀吉の道」という大きな板が、天王山の麓から山頂まで全部で6つあります。
京都市北区の大徳寺には、たくさんの小さなお寺が建っています。 別院と塔頭(たっちゅう)を合わせると20以上になり、それらのいくつかは、戦国武将と関係があります。 そこで、今回の記事では、戦国武将と関係がある大徳寺の塔頭を紹介したいと思います。