
雨月物語を書いた上田秋成のお墓がある西福寺
京都市左京区にある南禅寺の参道脇の狭い道を北に1分ほど歩くと、西福寺というお寺が建っています。 浄土宗の小さなお寺で、普段は門が閉まっていて中に入ることはできません。 なので、観光で訪れるお寺ではありません。 でも、ここには江戸時代の読本系の作家で、雨月物語の著者である上田秋成のお墓があるということなので、先日、立ち寄ってみました。
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京都市左京区にある南禅寺の参道脇の狭い道を北に1分ほど歩くと、西福寺というお寺が建っています。 浄土宗の小さなお寺で、普段は門が閉まっていて中に入ることはできません。 なので、観光で訪れるお寺ではありません。 でも、ここには江戸時代の読本系の作家で、雨月物語の著者である上田秋成のお墓があるということなので、先日、立ち寄ってみました。
京都市下京区の寺町四条は、電気店街として有名です。 寺町通の西側に家電量販店やパソコンショップが並んでおり、東側にはお寺や神社が並んでいます。 古いものと新しいものが向かい合っている姿は何とも不思議な光景ですね。 古いものが建ち並ぶ東側には、赤穂浪士の討ち入りに協力したことで知られる天野屋利兵衛のお墓がある聖光寺(しょうこうじ)も建っています。
聚楽第(じゅらくだい/じゅらくてい)は、豊臣秀吉が京都の住いとして造営した建物です。 秀吉は、関白に就任した翌年の天正14年(1586年)から聚楽第の造営に着手します。 天正11年から大坂城の築城も始まっていたので、秀吉は一度に2ヶ所の大工事を実施したんですね。
元治元年(1864年)7月に長州藩兵が京都に乱入してくる蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こりました。 蛤御門の変は、1ヶ月前に起こった池田屋事件で多くの長州系の志士が犠牲になったことに対する報復です。 長州藩は3方向から京都に向かい、これに対して会津藩と薩摩藩を中心とした幕府軍は、京都御所を守ります。 京都に入ってきた長州軍のうち、来島又兵衛が率いる藩兵は、京都市右京区の天龍寺に陣取りました。
福岡県の民謡で、酒席には欠かせない名歌として地元の人々に親しまれている黒田節。 黒田節は、貝原益軒(かいばらえきけん)が著した「黒田家臣伝」の母里但馬伝(もりたじまでん)に登場する逸話が元になっています。 その逸話が生まれた場所は現在の京都市伏見区で、御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)が建つ辺りです。
正平2年(1347年)に南朝の楠木正行(くすのきまさつら)は、紀州の隅田城(すだじょう)を攻略し、その勢いで堺ノ浦で細川顕氏(ほそかわあきうじ)を破ります。 室町幕府方の山名時氏は天王寺から退却、藤井寺の戦いでも幕府軍は南朝に敗れました。
京都市中京区の三条烏丸に株式会社千總(ちそう)という友禅染の老舗があります。 近くには、三井ガーデンホテル京都三条や烏丸ビルもありますね。 この地は、平安京左京四条三坊九町跡に位置しており、三条南殿、三条烏丸御所とも呼ばれていました。
京都市中京区の東洞院三条に大きなビルが建っています。 このビルは、NTT西日本の京都支店の建物です。 京都市内は規制が厳しいので、あまり大きな建物を建てることができないのですが、中京区、特に三条烏丸周辺には比較的大きな建物がたくさんありますね。 話は変わりますが、NTT西日本の京都支店が建つ辺りは、幕末の庶民教育機関であった教諭所(宣教館)が置かれた場所でした。
京都市中京区の河原町二条の交差点から北東に5分ほど歩くと、銅駝(どうだ)美術工芸高校があります。 この銅駝美術工芸高校が建っている地は、明治時代に舎密局(せいみきょく)が置かれた場所です。
京都府亀岡市の保津峡を川下りする保津川下りは、観光客の方に人気があります。 保津川下りは、JR亀岡駅近くから嵐山の渡月橋までの約16kmを2時間かけて下ります。 このような遊びができるのは、江戸時代に角倉了以(すみのくらりょうい)が保津峡を開削してくれたからなんですよね。