
蛤御門の変で長州藩が付けた刀傷が残る本堂・弘源寺
元治元年(1864年)7月に長州藩兵が京都に乱入してくる蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こりました。 蛤御門の変は、1ヶ月前に起こった池田屋事件で多くの長州系の志士が犠牲になったことに対する報復です。 長州藩は3方向から京都に向かい、これに対して会津藩と薩摩藩を中心とした幕府軍は、京都御所を守ります。 京都に入ってきた長州軍のうち、来島又兵衛が率いる藩兵は、京都市右京区の天龍寺に陣取りました。
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元治元年(1864年)7月に長州藩兵が京都に乱入してくる蛤御門(はまぐりごもん)の変が起こりました。 蛤御門の変は、1ヶ月前に起こった池田屋事件で多くの長州系の志士が犠牲になったことに対する報復です。 長州藩は3方向から京都に向かい、これに対して会津藩と薩摩藩を中心とした幕府軍は、京都御所を守ります。 京都に入ってきた長州軍のうち、来島又兵衛が率いる藩兵は、京都市右京区の天龍寺に陣取りました。
福岡県の民謡で、酒席には欠かせない名歌として地元の人々に親しまれている黒田節。 黒田節は、貝原益軒(かいばらえきけん)が著した「黒田家臣伝」の母里但馬伝(もりたじまでん)に登場する逸話が元になっています。 その逸話が生まれた場所は現在の京都市伏見区で、御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)が建つ辺りです。
正平2年(1347年)に南朝の楠木正行(くすのきまさつら)は、紀州の隅田城(すだじょう)を攻略し、その勢いで堺ノ浦で細川顕氏(ほそかわあきうじ)を破ります。 室町幕府方の山名時氏は天王寺から退却、藤井寺の戦いでも幕府軍は南朝に敗れました。
京都市中京区の三条烏丸に株式会社千總(ちそう)という友禅染の老舗があります。 近くには、三井ガーデンホテル京都三条や烏丸ビルもありますね。 この地は、平安京左京四条三坊九町跡に位置しており、三条南殿、三条烏丸御所とも呼ばれていました。
京都市中京区の東洞院三条に大きなビルが建っています。 このビルは、NTT西日本の京都支店の建物です。 京都市内は規制が厳しいので、あまり大きな建物を建てることができないのですが、中京区、特に三条烏丸周辺には比較的大きな建物がたくさんありますね。 話は変わりますが、NTT西日本の京都支店が建つ辺りは、幕末の庶民教育機関であった教諭所(宣教館)が置かれた場所でした。
京都市中京区の河原町二条の交差点から北東に5分ほど歩くと、銅駝(どうだ)美術工芸高校があります。 この銅駝美術工芸高校が建っている地は、明治時代に舎密局(せいみきょく)が置かれた場所です。
京都府亀岡市の保津峡を川下りする保津川下りは、観光客の方に人気があります。 保津川下りは、JR亀岡駅近くから嵐山の渡月橋までの約16kmを2時間かけて下ります。 このような遊びができるのは、江戸時代に角倉了以(すみのくらりょうい)が保津峡を開削してくれたからなんですよね。
源氏物語は、平安時代に紫式部が書いた小説です。 この小説は、世界で最初に書かれた長編小説として文学界では大変重要な意味を持っています。 源氏物語の主人公は光源氏で、彼の女性遍歴や出世していく様子が物語の中で描かれています。 ところで、紫式部は、なぜ小説の題名を源氏物語としたのでしょうか。 おそらく、主人公が光源氏だから、そのような題名にしたのだと思いますが、私が述べたいのはそういうことではなく、源氏をなぜ主人公にしたのかということです。
一揆。 この言葉から連想するのは、江戸時代や戦国時代に貧しい農民が徒党を組んで、時の権力者に反抗することではないでしょうか。 時代劇でも、その場面が出てくることがあるので、江戸時代以前の出来事のように思っている人が多いはず。 でも、一揆は近代になってからも起こっています。 その代表例は、大正7年(1918年)8月に起こった米騒動で、京都でも大きな騒ぎとなりました。
二条城の北は、平安時代、平安宮の内裏があった場所です。 その南東には一本御書所(いっぽんごしょどころ)と呼ばれていた施設がありました。 一本御書所は、天暦2年(948年)頃から貞信公記(ていしんこうき)などの文献に登場するようになります。 その役割は、世間に流布する書籍を一部ずつ書き写して保管していたとされています。 他に一本書と呼ばれる1冊しかない本を納めさせて保管していたという説もありますね。 歴史的事件としては、平治の乱(1159年)と深く関係しています。