曲直瀬道三の墓所がある十念寺
京都市上京区の寺町通沿いに個性的なお堂を持つ十念寺というお寺があります。 境内に入って良いものかわからないことから、近くを通っても、外からお堂を眺めることしかしたことがありません。 その十念寺の墓地には、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)のお墓があります。
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京都市上京区の寺町通沿いに個性的なお堂を持つ十念寺というお寺があります。 境内に入って良いものかわからないことから、近くを通っても、外からお堂を眺めることしかしたことがありません。 その十念寺の墓地には、室町時代から安土桃山時代にかけて活躍した医師の曲直瀬道三(まなせどうさん)のお墓があります。
地下鉄東山駅を出た南に昭和のレトロな雰囲気が漂う古川町商店街があります。 商店街はアーケードになっているので、雨の日でも買い物が便利です。 その古川町商店街の中にあるマンションの前には、ここが小泉俊太郎の住居跡だったことを示す駒札が立っています。
現代は、経済が発達し、様々な物やサービスを利用できるようになりました。 世の中に多くの商売が生まれるほど、我々の生活は便利になっていきます。 一方で、経済が発達すると、多くのお金を儲けようとあくどい商売をする人も増えてきます。 あくどい商売をする人がいるのは、現代に限った話ではなく、江戸時代以前にも同じような問題はありました。 江戸時代に商売についての道徳を説いたのが石田梅岩。 資本主義が発達していなかった江戸時代に彼は、その重要性を説いていたというのですから驚きです。
安政5年(1858年)に江戸幕府が、尊王攘夷を唱える志士たちを次々と捕らえる安政の大獄が起こりました。 最初に捕縛されたのは梅田雲浜で、他に頼三樹三郎、橋本左内、吉田松陰らも捕らえられました。 この時、梁川星巌(やながわせいがん)も捕らえられる予定でしたが、当時流行していたコレラにかかって死亡していたため捕縛を免れました。
京都市上京区の本満寺は、境内に立派な枝垂れ桜が植えられていることで知られ、春になると多くの旅行者や観光客がお花見に訪れます。 当寺の墓地には、尼子氏の忠臣として知られる戦国武将の山中鹿之助のお墓があります。
京都市上京区の京都御苑の北に相国寺があります。 相国寺の境内には、いくつも塔頭(たっちゅう)が建っており、その中に豊光寺というお寺があります。 豊光寺は、豊臣秀吉の追善のため、相国寺第九十二世住持の西笑承兌(せいしょうじょうたい)が、慶長3年(1598年)に創建したものです。 西笑承兌は、豊臣秀吉や徳川家康と面識があり、両者の前で肝を冷やしたことがあります。
発明王のエジソンは、白熱電球のフィラメントに京都府八幡市の竹を使ったとされています。 そのため、八幡市の男山に鎮座する石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の神苑には、エジソン記念碑が置かれています。 エジソンが八幡市の竹を使って白熱電球を発明したことは有名な話ですが、彼は、いったい、どうやって八幡の竹を手に入れたのでしょうか。
京都市東山区の清水寺を拝観し、境内を巡って出口に近づこうかというところに2つの茶屋があります。 1軒は舌切茶屋、もう1軒は忠僕茶屋といいます。 春と秋の行楽シーズンでは、どちらの茶屋も人が多く大変賑わっていますね。 今は、観光客が、歓談しながら、お茶を飲んだり食事をしたりしている舌切茶屋と忠僕茶屋ですが、2つの茶屋が清水寺で営業を始めたのは、幕末の安政の大獄と関係しています。
平清盛の母は、祇園女御(ぎおんのにょうご)と伝えられています。 祇園女御は、白河法皇の寵姫でしたが、平忠盛に与えられ、そして、清盛を生みました。 祇園女御が、平忠盛のもとにやってきたときには、すでに妊娠していたとされていることから、平清盛は、白河法皇の子供だとも伝えられていますね。 その祇園女御ですが、晩年は、京都市東山区の円山公園の近くで余生を送ったと言われています。
京都市下京区の京都駅の近くに東本願寺が建っています。 その東本願寺から東に3分ほど歩くと、当寺の飛地境内の渉成園(しょうせいえん)があります。 渉成園を拝観すると、立派なパンフレットを1部いただけます。 パンフレットには4種類あり、その中の「人物往来記 後編」では、幕末に14代将軍の徳川家茂(とくがわいえもち)と将軍後見職の一橋慶喜が、渉成園を訪れたことが記されています。