長岡京市の住宅街に乙訓寺(おとくにでら)というお寺が建っています。
創建したのは聖徳太子と伝えられているので、かなりの歴史があるお寺です。
乙訓寺に祀られている本尊は、合体大師像です。
この合体大師像は、文字通り2つのものを合体させて造られています。
弘法大師空海ゆかりの寺
乙訓寺の朱色の表門の右には、「弘法大師ゆかりの寺」と刻まれた石柱が立っています。
本尊の合体大師像は、弘法大師空海と関係があるので、このような石柱が立っているのもうなずけます。
ちなみに表門も含めて、境内にある建物の多くは、徳川綱吉の母の桂昌院が寄進したものです。
表門をくぐってまっすぐ進むと左に日限地蔵尊(ひぎりじぞうそん)が祀られています。
同様の名のお地蔵さんが、京都市東山区の安祥院にも祀られています。
安祥院の日限地蔵は、参拝者が日数を決めて祈願することができるとされています。
乙訓寺の日限地蔵もそうなのでしょうね。
日限地蔵を過ぎると、広い敷地が現れ、その奥に合体大師を祀っている本堂が建っています。
弘仁2年(811年)。
空海は、嵯峨天皇から乙訓寺の別当に任じられます。
ある日、空海が怨霊を鎮めるために八幡大菩薩を彫っていました。
すると翁の姿をした八幡大菩薩が現れ、「像を彫るのを手伝おう」と言いました。
そこで、空海は翁の姿を見ながら首から上を彫り、翁は空海の姿を見ながら首から下を彫りました。
そして、出来上がったもの同士をくっつけてみると、ぴったりと上下が合体したそうです。
これが合体大師像と呼ばれている理由です。
合体大師像がどのような姿をしているのか拝みたいと思うでしょうが、普段は見ることができません。
拝めるのは、33年ごとの開帳の時だそうです。
早良親王が幽閉された地
空海が怨霊を鎮めるために八幡大菩薩像を彫ったということですが、怨霊と言えば、乙訓寺は早良親王(さわらしんのう)の怨霊とも関係があります。
早良親王は、長岡京造営の長官であった藤原種継が暗殺された際、その犯人として捕らえられ乙訓寺に幽閉されました。
親王は、食を断って自分が犯人ではないと訴え続けましたが、聞き入れられず、非業の死を遂げます。
その後、頻繁に桓武天皇の身内に不幸があり、また、都で疫病が流行します。
やがて、これらは早良親王の怨霊の仕業と噂されるようになり、桓武天皇は長岡京から平安京に都を遷したと伝えられています。
この辺りのことについては、以下の過去記事で紹介していますので、ご覧になってください。
なお、乙訓寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。