京都市上京区の京都御苑の北に相国寺があります。
相国寺の境内には、いくつも塔頭(たっちゅう)が建っており、その中に豊光寺というお寺があります。
豊光寺は、豊臣秀吉の追善のため、相国寺第九十二世住持の西笑承兌(せいしょうじょうたい)が、慶長3年(1598年)に創建したものです。
西笑承兌は、豊臣秀吉や徳川家康と面識があり、両者の前で肝を冷やしたことがあります。
文禄の役の和平交渉で肝を冷やす
豊臣秀吉は、晩年、明を征服しようと朝鮮半島に出兵しました。
朝鮮への出兵は2度行われ、1度目は文禄の役、2度目は慶長の役と呼ばれています。
文禄の役は、日本の軍勢と明・朝鮮の連合軍との間で膠着状態となり、やがて講和の話が持ち上がります。
この時、豊臣秀吉には明が降伏すると伝えられ、また、明の皇帝には日本が降伏すると伝えられたことから、一悶着起こります。
日本からの使者である小西如安は、明の皇帝に対して、豊臣秀吉が明の臣下となり貿易を復活させたいと願っていると嘘を述べます。
また、日本では、豊臣秀吉に対して、明が降伏のための使者を送って来ると告げられていました。
明の使者は、楊方享と沈惟敬で、他に朝鮮からの使者も2名いました。
豊臣秀吉は、彼らに自らの実力を示すため、大坂城と伏見城に招きます。
そして、伏見城で宴を張った後、再び大坂城に使者を戻し、そこで明の皇帝からの国書を受け取ることにしました。
その時の国書を豊臣秀吉の前で読み上げたのが西笑承兌でした。
明の皇帝は、日本に降伏するつもりはありませんでしたから、国書にも降伏を意味する言葉はありません。
それどころか、国書には「汝を封じて日本国王となす」と書かれており、それを西笑承兌が読み上げると、豊臣秀吉の怒りが爆発します。
実力で日本を統一したのにわざわざ明から国王に任命されるいわれはないと。
そして、明との交渉役であった小西行長を手打ちにすると刀を取り出したことから、西笑承兌は肝を冷やし、小西行長はただ明からの国書を持ってきただけでその内容を知らないのだからお許しあるようにと説得しました。
しかし、豊臣秀吉の怒りはおさまらず、朝鮮での戦いが再び始まりました。
直江状で肝を冷やす
豊臣秀吉が亡くなり、朝鮮に出兵していた日本の軍勢は帰還しましたが、豊臣政権はぐらつき始めていました。
この頃、徳川家康が豊臣政権内で力を持ち始めており、浅野長政や石田三成を謹慎させ、加賀の前田家からは前田利家の正室の芳春院を人質に取るなど、政敵を退けていました。
そして、会津の上杉景勝に対しても、自領で築城していることなどを問題とし、上坂を促す使者を送ることにしました。
その時の使者となったのが、西笑承兌でした。
彼は、上杉景勝宛の書状を書き、徳川家康に見せます。
これを承知した徳川家康は、西笑承兌の書状を持たせ上杉景勝のもとに向かわせました。
徳川家康からの書状を受け取った上杉景勝でしたが、上坂する気はありませんでした。
そして、家老の直江兼続に返事を書かせ西笑承兌に渡すことにします。
この時の直江兼続の返事は、徳川家康の悪事を書き連ねたものでした。
西笑承兌は、これを徳川家康の前で読むこととなり、いつ家康の怒りが爆発すかと肝を冷やします。
この時、直江兼続が書いた書状は直江状と呼ばれ、徳川家康にこんな無礼な書状を見たことがないと言わせたほどの内容でした。
現在の豊光寺
豊臣秀吉と徳川家康の面前で2度も肝を冷やした西笑承兌が創建した豊光寺は、通常非公開で参拝できません。
でも、特別公開が行われることがあり、その時には境内の建物や庭園を拝観できます。
豊光寺の本堂には、本尊の釈迦如来の右側に西笑承兌の像が祀られています。
その像の表情は、無心とも言えるほど無表情で、豊臣秀吉と徳川家康の面前で肝を冷やしたとは思えない涼やかなものです。
また、境内には禅寺らしさを感じられるコケが生えた庭園もあり、こちらも豊光寺の見どころの一つとなっています。
普段は建物内部や庭園を見ることはできませんが、相国寺に参拝した時に豊光寺が特別公開されていたら、ぜひ拝観してください。
なお、豊光寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。