京都府乙訓郡大山崎町には、天王山があります。
「天下分け目の天王山」という言葉は、大山崎町の天王山が語源で、天正10年(1582年)6月13日に羽柴秀吉と明智光秀が雌雄を決した地として知られています。
山崎の戦いで勝利した羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)は、その後、次々とライバルを打ち破っていき、やがて天下統一を果たすことになります。
この羽柴秀吉の天下統一の第一歩となった山崎の戦いの解説を記した「秀吉の道」という大きな板が、天王山の麓から山頂まで全部で6つあります。
天王山登山口
天王山の登山口は、JR山崎駅から少し歩いた場所にあります。
天王山の標高は、270.4メートル。
登山口から登り始め、大念寺を過ぎると大山崎山荘美術館が建っており、その手前に秀吉の道の最初の解説があります。
秀吉の道は、堺屋太一氏の作で、画は岩井宏氏によるものです。
1つ目の題名は「本能寺の変」です。
天正10年6月2日。
織田信長は、天下統一を目前としながら、家臣の明智光秀によって本能寺で討ち取られてしまいます。
信長は、本能寺の変までに日本の半分を領地としており、さらに北陸に柴田勝家、関東に滝川一益、中国に羽柴秀吉を出陣させ、天下統一の総仕上げにかかっていました。
そして、信長も、自ら中国に出陣するために安土から京都に入り本能寺で宿泊。
しかし、わずかな共しか連れていなかったため、明智光秀に襲撃されたのでした。
三川合流展望台
秀吉の道の2つ目の解説は、三川合流展望台にあります。
大山崎山荘美術館から宝積寺を過ぎると、それまで舗装されていた道から、険しい山道に入ります。
私は友人と気軽な気持ちで天王山に登ったので軽装だったのですが、しっかりと登山の準備をした方が良いですね。
息を切らしながら、山道を上っていくと休憩所のような場所に到着。
この休憩所のような場所が、三川合流展望台です。
ここからは、桂川、宇治川、木津川の三川が合流し淀川となる景色を眺めることができます。
しかし、実際には、木々が生い茂っているため、2つの川が合流している付近しか眺めることができません。
写真に写っている上の川は、宇治川と木津川が合流した後の淀川で、下の川が桂川です。
三川合流展望台にある2つ目の秀吉の道の題名は、「秀吉の中国大返し」です。
明智光秀が、京都で信長とその嫡男の信忠を討ち果たした頃、秀吉は、備中(岡山県)で毛利と戦っていました。
中国攻めの総大将となってから5年。
遂に秀吉は、備中高松城を水攻めによって陥落させようとしていました。
ところが、6月3日の夜、明智光秀の使者が秀吉の陣に迷い込み、本能寺で主君信長が討ち取られたことを知ります。
秀吉は、直ちに毛利と和睦し、6月7日に姫路城に戻り、さらに10日には尼崎に到着するという当時としては考えられない速さで、兵を引き揚げてきました。
これが世に言う中国大返しです。
旗立松と山崎合戦の碑
三川合流展望台で休憩した後、再び山道を登り、さらに上にある旗立松展望台へ。
ここには、山崎の戦いで、秀吉が味方の士気を高めるために軍旗を掲げたとされる旗立松があります。
しかし、現在の旗立松は、山崎の戦い当時のものではありません。
初代の松は、明治時代に朽ちてしまい、その後3回植樹しましたが、昭和63年(1988年)に枯れてしまったそうです。
なので、現在の松は、5代目となります。
旗立松の近くには、山崎合戦の碑も置かれています。
この山崎合戦の碑からは、川の対岸にある男山を望むことができます。
また、展望台からは、大山崎町を見下ろすことができます。
ここからは、高速道路やたくさん並んだ企業の倉庫が見え、大山崎町が関西の物流にとってなくてはならない町だということがわかりますね。
旗立松展望台の近くには、3つ目と4つ目の秀吉の道の解説があります。
3つ目の題名は「頼みの諸将来らず」で、4つ目は「天下分け目の天王山」です。
本能寺で、信長を討ち果たした明智光秀は、織田家の諸将が諸国に散らばっている隙に畿内の制圧を考えていました。
しかし、秀吉の中国大返しという予想外の事態により、畿内制圧の前に秀吉を迎え撃たなければならなくなりました。
6月11日。
明智光秀は、天王山の南に位置する八幡市の洞ヶ峠(ほらがとうげ)に登ります。
光秀は、信長を討ち果たせば、諸将が自分になびくと考えましたが、彼らは逆に秀吉に味方。
それどころか、娘のたま(ガラシャ)が嫁いだ細川家や頼みにしていた筒井順慶も光秀に味方せず、兵力は羽柴勢の半分といった不利な状況に立たされました。
6月12日。
光秀は、洞ヶ峠を下り、決戦の地天王山に布陣します。
そして、6月13日午後4時30分頃、戦いの火ぶたが切って落とされました。
合戦が始まって3時間後。
明智軍の敗色が濃厚となり、光秀は勝龍寺城に逃げ込みます。
山頂目前の酒解神社
天王山のいたるところにある地図上では、旗立松は山の中腹よりやや上にあります。
半分以上登ってきたことになりますが、まだ山頂へはかなりの距離が残っています。
さすがにここまで登ると足も疲れてきますね。
そして、山頂まであと少しの場所に建っている酒解神社(さかとけじんじゃ)に到着。
さすがにここまで登ってくる人が少ないせいか、境内は荒れています。
酒解神社は、奈良時代の創建で、かなりの歴史があります。
境内の神輿庫は、重要文化財に指定されています。
秀吉の道もいよいよ5つ目。
題名は、「明智光秀の最期」です。
山崎の戦いに敗れた明智光秀は、勝龍寺城に逃げ込みましたが、小さい平城であることから、大軍の羽柴勢を防ぐことができません。
そこで、光秀は、夜が更けると少数の兵とともに城を脱け出し、近江坂本城へ向かいました。
しかし、山科小栗栖の竹やぶで、潜んでいた落ち武者狩りの村人に竹槍で突かれ、光秀はその場で自害して果てました。
山崎の戦いで勝利した秀吉は、丹羽長秀や池田恒興を配下に加え、次の天下人に向けて駈け始めます。
天王山山頂の山崎城跡
酒解神社を過ぎると、山頂まであと少し。
山頂には、一体何があるのかとワクワクしながらゆっくりと登っていきます。
そして、遂に天王山山頂に到着。
しかし、そこには山頂の碑といくつかの石がゴロゴロとあるだけ。
近くにある説明書を読むと、ここは山崎城跡のようです。
天王山は、昔から軍事上重要視されており、応仁の乱(1467年)の時には山上に城が築かれることもあったとか。
また、山崎の戦いで勝利した秀吉は、天王山に築城し大山崎を城下町としたそうです。
そして、秀吉の道も山頂にある解説が最後となります。
題名は、「秀吉の『天下人への道』はここからはじまった」です。
山崎の戦いの後、秀吉は、織田家の諸将を次々と配下に加えていきます。
しかし、柴田勝家は秀吉の配下に加わらず、翌天正11年に賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いが起こりました。
この戦いは、秀吉の圧勝に終わり、彼は天下統一の象徴として大坂城の築城を開始します。
また、秀吉は、過激な信長とは異なり、上杉や毛利などの大名と和睦し、彼らに元の領地を残すことで、天下統一を加速させていきます。
そして、天正18年の小田原攻めで北条氏に勝利し、天下統一を果たしました。
なお、「秀吉の道」の締めくくりには、以下のように記述されています。
秀吉のきらびやかな天下-それはこの天王山の東側で行われた合戦からはじまったのである。
秀吉の天下統一への道は険しいものだったのでしょうが、「秀吉の道」を全て読むために登った天王山の山道も、一般人にはかなり厳しいものでした。