鴨川に架かる橋はいくつかありますが、人と車の行き来が多いのは三条大橋と四条大橋です。
三条大橋は、今でも木造で昔ながらの風情を感じられますが、四条大橋は近代的です。
四条大橋も、江戸時代までは木造でしたが、明治6年(1873年)に架設事業が起工し、翌年3月に開通し現在の近代的な姿に生まれ変わっています。
廃仏毀釈で生まれ変わった四条大橋
ところで、現在の四条大橋に使われた資材はどうやって調達したのでしょうか。
実は、四条大橋の建築に使われた資材は、お寺の仏具類なのです。
お寺の仏具を使って橋を架けるなど、なんて罰当たりなんだと思う方もいるでしょう。
このようなことが行われたのは、慶応4年(1868年)3月から明治元年(1868年)10月まで断続的に布告された法令が原因です。
それらの法令は、神仏分離令と呼ばれています。
その名のとおり、神さまと仏さまを切り離すように命じた法令であり、これがきっかけとなり、各地でお寺が破壊される廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)が起こりました。
廃仏毀釈が最初に起こったのは、滋賀県の日吉大社からでした。
日吉大社は、江戸時代まで比叡山延暦寺の支配を受けていましたが、神仏分離令によって独立しました。
その際、これまで僧侶たちに虐げられていた神官たちが、比叡山の仏具類を壊し始め、それが全国各地に広まったのが廃仏毀釈運動です。
京都でも、仏事が禁止され、現在、夏の風物詩として親しまれている送り火も禁止されました。
破壊される仏教寺院もあり、その時に壊された仏具類が、四条大橋の架橋に使われたんですね。
伏見の宝塔寺も犠牲に
鵜飼秀徳氏の著書「仏教抹殺」では、伏見の宝塔寺も、四条大橋架橋工事のために仏具を供出したことが記されています。
四条大橋架橋工事のために仏具類が供出された事例としては、伏見区にある日蓮宗宝塔寺が犠牲になったとの記録がある。供出されたのは大鰐口だった。大鰐口とは仏前参拝の折に、紐を引いて打ち鳴らす大きな鐘のこと。神社の場合は鈴だが、寺院では大鰐口という仏具である。
宝塔寺の大鰐口(おおわにぐち)は、慶長年間(1596-1615年)に寄進されたもので、約63kgもあったそうです。
もしも、廃仏毀釈で供出されなければ、今も宝塔寺の本堂にこの大鰐口が吊るされていたかもしれません。
ちなみに宝塔寺の仁王門には、美しい花天井がありますから、参拝した時には忘れずに見ておきたいですね。
五条大橋の被害
仏教抹殺によれば、四条大橋の南に架かる五条大橋は逆に廃仏毀釈の被害を受けたそうです。
現在の五条大橋の高欄には、昔ながらの擬宝珠(ぎぼし)が設置されていますが、明治元年には、これが仏教的という理由で撤去され売却されました。
そして、五条大橋は洋風のペンキで塗りかえられ、今までとは違う見た目となります。
しかし、これには京都人も非難の声をあげ、結局、擬宝珠は買い戻され、明治10年に元の姿に戻りました。
でも、16基の擬宝珠のうち2基は行方不明となり、現在取り付けられているのは14基となっています。
四条大橋は、阪急電車の京都河原町駅から祇園や八坂神社に向かう多くの人々が渡ります。
また、京阪電車の祇園四条駅で降りた人が、買い物のために四条河原町に行くときに四条大橋を渡ります。
今は誰もが便利な橋だなと思って渡っていますが、仏具類で架橋されたことを知ると、信心深い方はなかなか渡れないのではないでしょうか。