前回の記事では、坂本竜馬と中岡慎太郎が暗殺された近江屋跡について紹介しましたが、竜馬が宿泊中に命を狙われたのは、近江屋だけではありません。
竜馬がなくなる前年の慶応2年(1866年)1月23日にも伏見の寺田屋で伏見奉行所に捕縛されそうになっていたのです。
指名手配犯・坂本竜馬
この年の1月中旬、竜馬は京都の相国寺門前の薩摩藩邸で薩長同盟を締結させています。
竜馬は、そのことを長州藩士の三吉慎蔵に伝えるため、彼が待っている伏見の寺田屋に向かいます。
その頃、将軍の補佐役の一橋慶喜(後の15代将軍)が大坂から京都に入るため伏見で停泊していました。
幕府の重役が伏見で停泊していることから、警戒は厳重です。そんな中、竜馬が伏見に入ったという報告が伏見奉行所に届きます。
伏見奉行所では、竜馬が一橋慶喜を暗殺しようとたくらんでいるのではないかと勘ぐっており、竜馬を指名手配します。
そして、奉行所は竜馬が寺田屋に入ったことを知り、100人余りの人数で竜馬捕縛のため寺田屋に向かいました。
竜馬の命を救ったおりょう
ちょうどその頃、竜馬の妻・おりょうが入浴していたのですが、寺田屋の外に大勢の奉行所の役人がいることに気づきます。
そのことを竜馬に伝えるために、おりょうは、着るものも着ずに2階に駆け上がります。
竜馬がおりょうから事の仔細を聞いた直後、奉行所の捕り方が2階に殺到。
槍の達人・三吉慎蔵は手槍で応戦。
竜馬も高杉晋作からもらったピストルで援護射撃。
しかし、2人と100人では分が悪いため、竜馬と慎蔵は隣の家に飛び込み、その場を切り抜けます。
この時、竜馬は親指を負傷。
傷跡の出血が止まらなかったため、竜馬は暗闇に隠れ、慎蔵に伏見の薩摩屋敷に応援を呼びに行かせます。
奉行所の捕り方が包囲している中、慎蔵はなんとか薩摩屋敷にたどりつき、竜馬を助けに行くように薩摩藩士にお願いします。
そして、薩摩藩士が舟で竜馬を助けに行き、彼もなんとか薩摩屋敷に担ぎ込まれ、命拾いしました。
竜馬が撃ったピストルの弾の跡
竜馬は、この時、ピストルで奉行所の捕り方を殺傷したことから、ますます幕府から危険人物として目を付けられるようになります。そして、このことが近江屋での暗殺につながったとも言われています。
なお、この騒動の時に、竜馬が撃ったピストルの弾の跡が寺田屋の柱に今も残っています。
しかし、2008年9月に京都市は、寺田屋が鳥羽伏見の戦い(1868年)によって焼失し、現在の建物は建て替えられたものと発表しています。
真相はわかりませんが、今もなお寺田屋は当時と変わりなく営業を続けています。