義士の寺と呼ばれる本妙寺

京都市左京区の平安神宮近くに本妙寺という小ぢんまりとしたお寺が建っています。

この付近は、本妙寺と同じくらいかそれよりも小さいお寺がたくさん建っているので、車の通りは多いのですが、京都らしさを感じることができます。

本妙寺は、観光寺院という訳ではないのですが、忠臣蔵と関係があるお寺なので、紹介しておきたいと思います。

鎌倉時代末から続く日蓮宗の寺院

本妙寺は、鎌倉時代末期の正和4年(1315年)に日蓮の法孫の日像(にちぞう)が、渡辺氏の帰依を受けて創建したのが始まりです。

もちろん宗派は日蓮宗です。

本妙寺

本妙寺

しかし、創建後ほどなくして中絶。

再建されたのは、創建から250年以上経った天正2年(1574年)のことです。

ところが、不運なことに江戸時代の宝永の大火(1708年)で類焼してしまいます。

ただ、この後の再建は以前よりも早く、享保13年(1728年)に日正(にっしょう)によって行われています。

現存する本堂は、この時に再建されたものです。

義士の寺

以上が、本妙寺の沿革です。

この記事の最初の方で、本妙寺が忠臣蔵と関係があると述べました。

そのため、当寺は「義士の寺」とも呼ばれています。

江戸時代、赤穂藩の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)は、日ごろから吉良上野介(きらこうずけのすけ)の嫌がらせを受けていました。

浅野は、その恨みから江戸城内で吉良に斬りつけ、その後、幕府から切腹、藩の取りつぶしという処分を受けます。

その主君の恨みを晴らすために赤穂藩の47人の浪士達が、吉良邸に討ち入り、見事本懐を遂げた後、切腹しました。

これが、忠臣蔵のストーリーです。

討ち入りに参加した浪士の中には、貝賀弥左衛門という人物がいました。

もちろん彼も討ち入り後は切腹しています。

弥左衛門が亡くなった翌年の宝永元年(1704年)、綿屋善右衛門という赤穂藩の御用商人が、本妙寺を菩提寺として定めていた弥左衛門、その兄の吉田忠左衛門と子の沢右衛門、弥左衛門の妻のおさんの合祀石碑を建立しました。

また、境内の墓地には、弥左衛門、忠左衛門、沢右衛門のお墓もあります。

忠臣蔵に登場する商人と言えば、赤穂浪士を経済的に援助した天野屋利兵衛が有名です。

ところが、天野屋利兵衛は、実際には、赤穂浪士の討ち入りには関与しておらず、彼らを経済的に援助していたのは、綿屋善右衛門だったそうです。

詳しいことについては、忠臣蔵会館というWEBサイトの下記ページの(42)をご覧になってください。

  • 史実忠臣蔵の常識

2013年7月4日追記:上記サイトは閉鎖しています。?

忠臣蔵に興味がある方は、一度、本妙寺に訪れてみてはいかがでしょうか。

なお、本妙寺の詳細は以下のページを参考にしてみてください。