現在も、そろばんを使って計算されている方はいると思います。
そろばん教室も目にすることがありますから、電卓、パソコン、スマートフォンが発達しても、そろばんはこれからも残っていきそうな道具ですね。
そろばんの歴史は古く、紀元前からあったようで、日本には15世紀初頭には伝来していたと考えられています。
日本で、そろばんを使った算術が広まったのは江戸時代に入ってからで、吉田光由(よしだみつよし)が著した塵劫記(じんこうき)がその発展に貢献しました。
江戸庶民に爆発的に広まった塵劫記
吉田光由は、慶長3年(1598年)に京都市右京区の嵯峨で、角倉了以(すみのくらりょうい)の一族として生まれました。
角倉了以は、高瀬川の開削をしたことで有名な豪商ですね。
吉田光由は、和算家の毛利重能(もうりしげよし)に師事し、角倉了以や角倉素庵の教えを受けて、中国の算法統宗(さんぽうとうそう)を手本に塵劫記を著しました。
塵劫記は、そろばんを使った計算法を記載した算術の教科書で、図も多用されていました。
その塵劫記が庶民に爆発的に受け入れられ、吉田光由の名は全国的に知られるようになります。
長い戦国時代が終わって江戸時代となり、商業や工業が発達していった時代でしたから、算術の重要性が高まっていたのでしょうね。
また、吉田光由は、兄の光長とともに北嵯峨に農業用トンネル水路の菖蒲谷随道(しょうぶたにすいどう)を工事したことでも知られています。
幕末にヘボンが来日した時、日本人の数学の力が非常に高いことに驚いたという逸話が残っています。
当時の日本人が数学をよく知っていたのは、吉田光由の塵劫記が、江戸時代の庶民に広まっていたことが理由かもしれませんね。
吉田光由記念碑
京都市右京区の二尊院には、吉田光由のお墓があります。
彼のお墓の前には、「吉田光由記念碑」と刻まれた石碑が設置されています。
この石碑には、平成27年(2015年)11月21日に建立されたことが記されています。
近くの説明書によると、二尊院は吉田・角倉一族の菩提寺で、調査の結果、この場所が吉田光由の眠る場所であると推定されたそうです。
推定なので確定ではないのでしょうが、ここが吉田家代々のお墓のようですから、吉田光由もここに眠っている可能性が高そうです。
なお、二尊院の詳細については以下のページを参考にしてみてください。