7月初旬に京都市伏見区の伏見稲荷大社に参拝した日、東丸神社(あずままろじんじゃ)にもお参りしました。
東丸神社は、江戸時代の国学者である荷田春満(かだのあずままろ)を祀っている神社です。
伏見稲荷大社が商売繁盛のご利益で有名なのに対し、東丸神社は学業成就や受験合格の神さまとして知られています。
徳川吉宗が幕府の蔵書閲覧を頼む
JR稲荷駅を出て、伏見稲荷大社の参道をまっすぐ東に進みます。
そして、楼門をくぐると南側に東丸神社が建っています。
東丸神社は、その場所から伏見稲荷大社の摂社のように思えますが、伏見稲荷大社とは別の神社です。
また、伏見稲荷大社の境内に建っているように見えますが、東丸神社の社地も伏見稲荷大社とは別です。
鳥居をくぐり北向きに建つ本殿の前にやって来ました。
それではお参りをしましょう。
東丸神社は荷田春満を祀っていると述べましたが、祭神の名は荷田東丸命(かだあづままろのみこと)です。
神社の説明書によると、荷田春満は、寛文9年(1669年)正月3日にこの地で誕生したそうです。
本名は羽倉信盛(はくらのぶもり)といい、子供の頃から歌道や書道に秀れ、長じて国史、律令、古文古歌、諸家の記伝にいたるまで独学で勉強しました。
特に内容の乏しい形式的な堂上歌道を打破して、自由な本来の姿に立ち返らせようとしたそうです。
荷田春満は、29歳の時から妙法院宮に歌道の師として進講しました。
しかし、幕府が朱子学を政治の指導理念としていたことから、書を学ぶ人々が極端に漢風に走るのをみて、古学廃絶の危機を感じ、古学復興のために文化の中心である江戸へと旅立ちました。
荷田春満は、江戸にいる間、独学で勉強し、門人たちに古学を講義しました。
すると彼の学識は世に高く聞こえるようになり、その名声を聞きつけた8代将軍徳川吉宗から幕府の蔵書閲覧を依頼されました。
荷田春満は、蔵書の間違いを訂正し不審な点は細かく説明し、その後、徳川吉宗から建議並に百般の書籍の推薦検閲の特権を与えられ、偽本の跡を絶ちました。
江戸から京都に戻った荷田春満は、賀茂真淵(かものまぶち)など多数の門人に講義を行い、元文元年(1736年)に68歳で亡くなりました。
学問の世界で大きな功績を残しているから、荷田春満は学業成就や受験合格の神さまとして崇敬されているんですね。
赤穂浪士の討ち入りを手助け
境内の東側に建つ社は荷田社(かだのやしろ)です。
荷田春満の遠祖である荷田殷、嗣、早、龍の4霊を合祀しています。
和銅4年(711年)に稲荷大神稲荷三ヶ峰鎮座の際、最初に奉祀したのが荷田殷で、以来、荷田家が代々稲荷社正官御殿預職をつとめたとのこと。
荷田社の隣に建つのは春葉殿。
手水屋には東丸大神由縁の井水があります。
この水は、荷田春満の生誕時に産湯として使った水だそうです。
以後も、荷田春満は、この水を学問、研究の際に硯滴(すずりのみず)として常に愛用していたということです。
荷田春満は、国学者として有名ですが、忠臣蔵でお馴染みの赤穂浪士の討ち入りの手助けをしたという逸話も残っています。
荷田春満が江戸にあった頃、吉良上野介も彼の教えを受けていました。
しかし、吉良上野介の汚行を知った荷田春満は、彼に教えることをやめたそうです。
そして、以前から親交のあった大石内蔵助(おおいしくらのすけ)の訪問を受け、その後も堀部弥兵衛、堀部安兵衛、大高源吾等と交わり、吉良邸の見取図を作り、大高源吾に与え、赤穂浪士の討ち入り成功に貢献した伝えられています。
境内には合格祈願の絵馬と千羽鶴がたくさん奉納されていました。
社務所では、受験合格のお守りを授与していただけます。
初穂料は500円。
また、試験当日の祈祷もお願いできるそうです。
本殿には、「としまいり心願成就」の竹棒がたくさん並んでいました。
としまいりは、年齢と同じ数だけお願いを重ねることです。
竹棒を年齢の数だけ持ち、本殿と鳥居近くにある「としまいりの石」との間を心静かに回り、お願いの都度、持っている竹棒を1本ずつ本殿に設置された箱に納めていきます。
こちらは、東丸神社の西隣にある荷田春満旧宅です。
大正11年(1922年)に国の史跡に指定されています。
学問の神さまといえば菅原道真が有名なので、菅原道真が祀られている北野天満宮に合格祈願にお参りする受験生が多いと思います。
でも、荷田春満も、菅原道真ほど有名ではありませんが、学問に秀でた人物なので、試験前にお参りをしておけば良い結果が期待できるのではないでしょうか。