1月下旬。
京都市伏見区の御香宮神社(ごこうのみやじんじゃ)に参拝しました。
御香宮神社は伏見を代表する古社で、歴史的には徳川家と縁があったり、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の鳥羽伏見の戦いの戦場となったことでも知られています。
冬の境内に1輪の梅の花
御香宮神社の最寄り駅は、近鉄電車の桃山御陵前駅もしくは京阪電車の伏見桃山駅です。
どちらの駅からも、東に徒歩3分ほどで、御香宮神社の表門の前に到着します。
今回は、表門とは真逆の北門から境内に入ります。
さすがにこの時期の神社は人が少なく、寂しいものがあります。
北門近くに建つ東照宮。
徳川家とゆかりがあることがよくわかる社です。
東照宮の隣には、松尾社があります。
松尾社の隣にも、いくつか末社が建っていますよ。
それでは本殿にお参りです。
徳川家康は、伏見滞在中に徳川御三家の藩祖となる3人の男子に恵まれました。
以後、当宮は徳川家の産土神(うぶすながみ)となります。
徳川御三家は、尾張、紀伊、水戸の三藩で、徳川宗家に後継ぎがいなくなった時に御三家から将軍に迎えるようになっていました。
8代将軍の吉宗や14代将軍の家茂(いえもち)は紀伊出身ですし、慶喜は水戸から一橋家の養子となった後、15代将軍になっていますね。
本殿の裏では、白梅が1輪花を咲かせていました。
京都の梅の見ごろは2月中旬以降ですが、御香宮神社では、一足早く梅が咲き始めていましたよ。
とは言え、御香宮神社の梅も、見ごろは2月中旬以降ですから、まだ観梅には早いです。
本殿の前に建つ割拝殿。
御香宮神社の割拝殿は装飾が美しいので、いつまでも見ていたくなります。
でも、見上げていると首が疲れてくるので、長時間見続けるのは厳しいのですが。
伏見の戦跡の石碑
境内には、鳥羽伏見の戦いの史跡を示す「明治維新 伏見の戦跡」の石碑があります。
石碑の近くには、元内閣総理大臣の佐藤栄作さんが書いた説明書があります。
慶応3年(1867年)12月9日に王政復古の大号令が発せられた後、朝廷と幕府の間で険悪な空気が流れ始めます。
御香宮神社の表門には、「徳川家陣営」と書いた大きな木札が掲げられていましたが、祠宮三木善郷がすぐに御所に人を遣わすと、翌日に薩摩藩の吉井幸輔が訪れ木札を外し、ここに部隊を置きました。
そして慶応4年正月3日。
鳥羽で砲撃が聞こえたのを合図に御香宮神社に陣取った新政府側の薩摩藩は、ここから南の伏見奉行所に陣取る旧幕府側の会津藩や新撰組と激突しました。
薩摩藩は、大山弥助が指揮を執っていましたが、旧幕府軍の猛攻を受け、一時は御香宮神社の北の墨染まで撤退します。
しかし、翌4日に軍事総裁に任じられた仁和寺宮嘉彰(よしあきら)親王が錦の御旗を翻して陣頭に立つと、新政府軍の士気が高まり、旧幕府軍を淀、八幡市の橋本へと撃退し、鳥羽伏見の戦いに勝利しました。
徳川家康が伏見滞在中に3人の男子に恵まれたことは、強固な江戸幕府体制の基礎を築くことになりましたが、ここ御香宮神社での敗戦が、徳川の時代を終わらせたのですから皮肉なものです。
帰りは、表門から外に出ます。
表門は、伏見城の大手門を移したものとされています。
お城にあった門らしく、門構えが豪壮です。
白い塀に囲まれた御香宮神社を見ると、薩摩藩が陣取った理由がわかりますね。
なお、御香宮神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。