豊臣秀吉の朝鮮出兵を今に伝える耳塚

京都市東山区にある京阪電車の清水五条駅から七条駅の間には、豊臣秀吉と関係のある旧跡が多くあります。

以前に紹介した方広寺や豊国神社は、豊臣秀吉と関係があるものですが、その近くにも秀吉と関係の深い耳塚があります。

2度の朝鮮出兵

秀吉は、天下を統一した後、大陸への進出を考えます。

そこで、まず大陸への足掛かりとして、最初に出兵したのが朝鮮だったわけです。

朝鮮出兵は、文禄の役(1592年)と慶長の役(1597年)の2度行われましたが、朝鮮軍の強い抵抗と明の援軍によって失敗に終わります。

戦国時代では、戦で活躍した武将に恩賞が与えられますが、その恩賞の基準となるのが敵の武将の首級(しるし)でした。

朝鮮出兵の際にも、活躍した武将には恩賞が与えられるため、出兵した武将は敵の首級を日本に持ち帰ろうとします。

しかし、首級を日本に持ち帰るのは手間がかかったため、代わりに朝鮮人の耳や鼻を日本に持ち帰り、それを基準に恩賞を与えることにしました。

その耳や鼻を埋めたのが、豊国神社の近くにある耳塚だったのです。

豊国神社の近くにある耳塚

豊国神社の近くにある耳塚

朝鮮通信使の訪問

朝鮮出兵の際、多くの朝鮮人が日本に拉致されました。

朝鮮側は、戦の後、拉致された朝鮮人の帰還を求めるために度々来日します。その使節は、後に江戸幕府にも派遣されるようになり、朝鮮通信使と呼ばれました。

そして、朝鮮通信使は、朝鮮出兵で犠牲になった当時の人々を供養するために耳塚にも立ち寄り、拝んだとされています。

豊臣家の滅亡につながった秀吉の欲望

耳塚の近くには、秀吉が大仏を造った方広寺大仏殿跡もあります。

朝鮮出兵も大仏造営も秀吉の際限のない欲望から始まったことと言えますが、当時の秀吉はそれが豊臣家の滅亡につながるとは思いもよらなかったのでしょう。

後に関ヶ原の戦いで勝利し江戸幕府を開いた徳川家康は、朝鮮出兵には参加せず兵力を温存。そして、方広寺の大仏修理のために、豊臣家に散在させ財力を失わせます。

その結果、大坂夏の陣で豊臣家は滅亡しました。

東山区にある耳塚や方広寺大仏殿跡は、人間の際限のない欲望は自らをダメにするという教訓を今に伝えていますね。

秀吉の朝鮮出兵については、豊臣秀吉の朝鮮出兵はスペインの日本侵略を防ぐ布石を打つことが目的だった|朝鮮歴史館というブログで詳しく紹介されています。このブログでは、ヨーロッパの植民地支配の観点からも朝鮮出兵について説明されていますね。興味深い内容なので参考にしてみてください。