平安時代、京都市東山区の京阪電車の清水五条駅から七条駅あたりまでの地域を六波羅といいました。
六波羅は、平清盛の邸宅があったことで知られています。
清盛の邸宅は、他に下京区の西八条にもありました。
もちろん、清盛はどちらの邸宅にも住んでいました。
青春時代を過ごした六波羅
六波羅の邸宅は、若き日の清盛が過ごしたところです。
この地に一族が住むようになったのは、彼の祖父の正盛の時です。
六波羅で青春時代を過ごしていた頃の清盛は、まだ無名の存在でした。
清盛の名が世に知られるようになったのは、久安3年(1147年)のある事件からです。
この頃、都では度々、山門の強訴(ごうそ)が朝廷を悩ませていました。
山門の強訴とは、簡単に説明すると奈良や比叡山の荒法師が神輿(みこし)を担いだりして、都に押し寄せ、自分たちの要求を朝廷につきつけることです。
これには、天皇も悩んでいたようで、白河法皇は、サイコロの目と鴨川の流れと山法師はどうすることもできないと嘆いていたそうです。
この年も比叡山の荒法師たちが、日吉山王(ひえさんのう)の神輿を担いで、都に強訴をしにやってきました。
しかし、荒法師たちの前に一人の武者が立ちはだかります。
そう、それが平清盛だったのです。
清盛は、神輿に向かって弓矢を構えます。
神輿に向かって矢を射るなどは罰当たりな行為で、そのようなことをしても矢は神輿には当たらず、また、当たったとしてもすぐに矢を射た者に罰が当たり、死んでしまうと信じられていました。
しかし、清盛が放った矢は神輿に見事命中。
しかも、清盛は死ぬどころかピンピンとしています。
全ては迷信だったのです。
この後、清盛と荒法師たちは乱闘となり、後日、清盛は朝廷から罰金刑を受けました。
今まで神輿に向かって矢を射た者はいなかったので、この事件の後、平清盛の名は広く世間に知られることになります。
現在、六波羅と呼ばれたあたりには、六波羅蜜寺が建っています。
このお寺には、平清盛の座像が安置されており、また、境内には清盛の塚もあります。
栄華を極めた清盛の西八条殿
日吉山王の神輿に矢を射て世間の知るところとなった平清盛は、その後、保元の乱と平治の乱で勝利し、とんとん拍子に出世していきます。
そして、六波羅には、平家一門の邸宅が建ち並び、いよいよ平家全盛の時代が訪れようとしていました。
仁安元年(1166年)。
清盛は、現在の下京区の西大路八条に新たな邸宅を建てます。
この邸宅は、西八条殿や西八条第などと呼ばれました。
西八条殿にはある伝説が残っています。
清盛はこの年、紀州に熊野詣でに行きました。
その時、彼は、「自宅の敷地に若一(にゃくいち)王子の御神体が眠っているから探し出せ」というお告げを受けます。
そのお告げのとおり、邸宅内を探してみたところ、なんと若一王子の御神体が土の中から現れました。
清盛は、その御神体を祀るために西八条殿に鎮守社を建てました。
この鎮守社が、現在の若一神社です。
若一神社を創建した翌年、清盛は武士で初めて太政大臣となり、この後、平家一門は栄華を極めることになります。
平時忠が、「平家でない者は人でない」と言ったのはこの頃です。ただ、この発言は事実ではないとも言われています。
若一神社創建後に平家が繁栄したことから、当社は、開運出世の神様として信仰を集めています。
若一神社には、西八条殿跡の石碑が建っています。
境内には、平清盛の像も置かれていますね。
都落ちで焼失した六波羅と西八条
栄華を極めた平家一門も清盛の死後は、次第に力を失っていきました。
六波羅と西八条の邸宅は、木曽義仲の上洛に先立ち、平家一門が都落ちする際に焼かれました。
若一神社の西八条殿後の石碑は、平安時代末期に栄華を極めた平家の史跡としてはあまりに寂しいですね。