今から550年前の応仁元年(1467年)に勃発した応仁の乱は、京都の街を焼きつくしました。
これまでの価値観は崩壊し、世は戦国時代へと突入。
公卿たちが都を離れて地方で暮らすようになり、各地に小京都ができるようになったのもこの頃からです。
戦国時代は、社会の価値観が崩壊し、下の者が上の者に取って代わる下剋上が流行するようになりました。
そして、下剋上を象徴するように活躍し始めたのが、足軽と呼ばれる兵士たちでした。
すぐれた機動力で活躍した足軽
足軽の語源は、足疾(あしはや)とされており、字のとおり足が速い人のことを表しています。
この時代の武士は馬に乗っていましたが、足軽たちは馬に乗らず速い足を活かして戦いに参加していました。
足軽たちは戦のたびに武士に徴発され、敵地での略奪の許可が報酬とされていたので、まさに実力主義で生きていた人たちと言えます。
彼らは、継続的に特定の武士の下で働いていたのではなく、その場限りの仕事をしていたので、戦いで活躍しても名が残ることはありません。
応仁の乱以降に活躍した足軽は相当な数に上るはずですが、歴史に名を残した足軽はほとんどいないはずです。
骨皮道賢の活躍
この時代の足軽で、後世に名を残したのは、おそらく骨皮道賢(ほねかわどうけん)だけでしょう。
骨皮道賢は、応仁の乱で東軍の細川勝元に味方しました。
彼の配下は300人もいたというのですから、十分な戦力をそなえていたと言えます。
骨皮道賢は、配下の者たちと共に伏見の稲荷山を占領します。
そして、西軍の物流を絶って東軍が有利に戦えるようにしました。
西軍は、骨皮道賢の戦術に苦戦。
そこで、西軍は畠山義就(はたけやまよしなり)と大内政弘を派遣して骨皮道賢を鎮圧しました。
たかだか足軽を攻めるのに西軍の主力部隊が投入されたのですから、骨皮道賢が戦に優れた才能を持っていたことがよくわかります。
骨皮道賢が稲荷山で奮闘したのは1週間ほどでした。
しかし、100年続く戦国時代で足軽が大活躍したことを考えると、彼の働きが時代を変えたと言えそうです。
現在、稲荷山のふもとには海外旅行者に大人気の伏見稲荷大社があります。
稲荷山にも、多くの社殿が建っており、参拝者はお山めぐりをできるようになっています。
おそらく、多くの参拝者が、550年前に稲荷山で骨皮道賢が活躍したことをご存知ないでしょうね。
海外からお越しの方で、彼の名を知っているとすれば、かなりの日本史マニアです。
なお、伏見稲荷大社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。