日本にキリスト教が入って来たのは戦国時代です。
その後、織田信長の庇護を受け、キリスト教が国内に広まっていきましたが、豊臣秀吉が天正15年(1587年)に伴天連(バテレン)追放令を出してキリスト教を弾圧します。
しかし、秀吉の死後、徳川家康が政権を取ると再びキリスト教の布教が認められるようになりました。
京都市内にもキリスト教の施設があった
京都市上京区の京都御苑から少し西に歩いた油小路通と元誓願寺通の交差点にキリスト教の施設がありました。
その施設の名は、慶長天主堂です。
慶長天主堂は、慶長9年(1604年)ころに復興された耶蘇会(イエズス会)の天主堂教会です。
江戸時代以前の京都は、仏教系のお寺ばかりが建っていたと思っている人も多いでしょうが、安土桃山時代にはキリスト教の教会もありました。
その代表が南蛮寺です。
しかし、南蛮寺は、豊臣秀吉の伴天連追放令以後に破壊されてしまいました。
豊臣秀吉がキリスト教を弾圧した理由には、諸説あります。
キリスト教が広まると一向一揆のような反乱が起こる可能性があるから予防的に追放したとも言われていますし、ポルトガル人が日本人を奴隷として売っていたからとも言われています。
また、九州征伐の際に長崎がキリスト教の教会領になっているのに気付いたことも、豊臣秀吉がキリスト教を弾圧した理由と考えられています。
徳川幕府のキリスト教弾圧
徳川家康が江戸幕府を開いて間もない頃、再びキリスト教の布教が自由になりました。
そこで、キリスト教徒たちは、京都にも慶長天主堂を建てます。
以前の南蛮寺よりも美しい建物だったと言われており、宣教師も常駐して荘厳なミサが行われていたようです。
また、近くには学校も設けられました。
しかし、慶長17年に徳川幕府も豊臣政権と同じようにキリシタンの大弾圧を開始し、慶長天主堂も焼き払われてしまいました。
今では、慶長天主堂の跡地とされる場所には、腰ほどの高さの石柱が立っており、周囲に多くの民家が並んでいます。
徳川幕府は、当初はヨーロッパ諸国と貿易を行うことを奨励していたのになぜ鎖国をしたのでしょうか。
その理由は、イギリスやオランダから、スペインやポルトガルがキリスト教を広めて日本を征服しようとしているという情報を得たからだとされています。
やがて、スペイン船とポルトガル船の来航が禁止され、オランダとの貿易も制限され長崎の出島が交易の窓口となりました。
前野徹さんの「新歴史の真実」という本に興味深いことが書いてあったので、少し紹介します。
豊臣秀吉が朝鮮に出兵したのは、朝鮮と戦うためではなくその向こうの明国と戦うためでした。
秀吉が明国と戦うことを目的に朝鮮に出兵したことは、多くの歴史研究家が認めています。
新歴史の真実では、豊臣秀吉が、スペインがルソンのマニラ、ポルトガルがマカオ、オランダがジャワのそれぞれにアジア侵略の拠点を持っており、これら3ヶ国が中国大陸を狙っていることを察知したから明国と戦う決意をしたと述べられています。
そうしなければ、やがて中国は3ヶ国の手に落ち、次に日本への侵略が始まります。
だから、豊臣秀吉は先手を打って明国と戦ったのだとのこと。
遠い昔のことなので、豊臣秀吉の真意がどうだったのかは、ただ推測することしかできません。