きぬかけの道を龍安寺から仁和寺に向かうちょうど中間地点に住吉大伴神社という神社が建っています。
あまり大きな神社ではないため、多くの観光客の方は、この神社を素通りしていきます。
しかし、住吉大伴神社の創建は古く、ある事件が起こらなければ、京都を代表するような神社になっていたかもしれないのです。
伴氏の氏神を奈良から移す
住吉大伴神社は、当初は伴氏神社という社名でした。
もともとは大伴氏の氏神で、平安遷都(794年)とともに奈良から京都に移されました。
京都での創建は、承和元年(834年)です。
ちなみに大伴氏は、淳和天皇の諱(いみな)が大伴皇子であったことから、伴氏に改めています。
応天門の変で衰退
貞観8年(866年)閏3月10日。
平安京大内裏の応天門が燃えるという事件が起こりました。
応天門は、伴氏が造営したものです。
この火災は、伴氏を呪った者の犯行だと考えた伴善男は、ある人物を犯人として藤原良相(ふじわらのよしみ)に告発しました。
告発されたのは、源信(みなもとのまこと)です。
藤原良相は、すぐに源信を逮捕するために邸を取り囲みました。
しかし、これを知った良相の兄の藤原良房が、大して調べもせずに源信を犯人と決め付けるのは良くないと考えます。
そして、清和天皇に奏上し、源信の取り調べは保留となりました。
それからしばらくが過ぎた8月3日。
応天門放火事件の目撃者が現れます。
その目撃者は大宅鷹取。
そして、鷹取は、応天門の放火の犯人は伴善男父子だと訴えたのです。
この目撃情報によって、伴善男は捕えられ、取り調べの中で自分が犯人だと自白しました。
その後、伴善男は伊豆に島流しとなり、伴氏は政治の世界から失脚したのです。
応天門の変の後、藤原良房は人臣初の摂政となり、これ以降、藤原氏が政治の世界で重要な役割を果たしていくことになります。
そのため、応天門の変は、良房が画策した事件だったのではないかとも言われています。
応天門の変については、下記WEBサイトで詳しく解説されていますので、もっと深く知りたい方はご覧になってください。
伴氏の失脚は、伴氏神社にも影響を与えました。
以降、伴氏神社は衰退していきます。
そして、平安時代末期には、徳大寺家が和歌の神様の住吉神を祀って、住吉神社と改称し、社名から伴氏の名が消えました。
現在の社名となったのは、昭和に入ってからです。
もしも、古くからの豪族であった伴氏が応天門の変で失脚しなければ、住吉大伴神社も大いに栄えていたかもしれません。
応天門の変は、政治が文化を衰退させた事件であったと言えそうです。
なお、住吉大伴神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。