東福寺の維新戦役忠魂碑

慶応4年(1868年)正月3日に京都で鳥羽伏見の戦いが起こりました。

鳥羽伏見の戦いは、薩摩藩及び長州藩を中心とした新政府軍と旧幕府軍との間の戦いで、戊辰戦争(ぼしんせんそう)の幕開けとなりました。

京都には、鳥羽伏見の戦いの史跡がいろんなところにあり、京都市東山区の東福寺にも維新戦役忠魂碑が立っています。

碑文選者は奇兵隊士の三浦梧楼

東福寺の維新戦役忠魂碑は、鳥羽伏見の戦いから50年経過した大正6年(1917年)に建立されました。

碑文選者は、長州藩士で奇兵隊士の三浦梧楼です。

維新戦役忠魂碑は、東福寺境内の仏殿の東側、「防長忠魂碑」と刻まれた石柱の隣に立っています。

防長忠魂碑

防長忠魂碑

高さが350cmあるので、結構大きな石碑です。

維新戦役忠魂碑

維新戦役忠魂碑

碑文選者が長州藩士ですから、碑文の内容も鳥羽伏見の戦いで戦死した長州藩士48名の功績を讃えるものとなっています。

碑文の内容の一部に以下の文言があります。

我軍呵止之不聴往復移刻既而砲声起於鳥羽乃開砲応撃軍皆殊死而戦至天明東軍
敗走退保淀城四日拝嘉彰親王為征討大将軍賜錦旗節刀五日官軍両道薄定賊望錦
旗胆奪気喪而津兵守山崎者嚮順砲撃其退路於是賊軍大潰慶喜海路走江戸恭順待

何を書いてあるのまったくわからないので、京都市のホームページで内容を確認することに。

上記の碑文の大意は以下の通りです。

我が軍は制止したが聴こうとしなかった。交渉を続けている最中に鳥羽方面で砲声が起きた。そこで戦端を開き決しの覚悟で戦闘を続けたが,翌日の夜明けに東軍(幕府方)は敗れ淀城まで退去した。四日,仁和寺宮(小松宮)彰仁親王が征討大将軍に任じられ,錦旗と節刀を賜った。五日,官軍が伏見・鳥羽の両方面を平定した。賊軍は錦旗を見て意気喪失し,さらに山崎を守っていた津藩兵が官軍に味方し退路を砲撃した。ここに賊軍は敗れ,慶喜は海路江戸へ逃れ謹慎して処分を待った。

「我が軍は制止したが聴こうとしなかった」というのは、幕府軍が京都に入ろうとするのを制止しようとしたということです。

そして、薩摩藩側から発砲して鳥羽伏見の戦いが始まりました。

長州藩は、東福寺に陣を敷いて伏見方面で会津藩兵と戦います。

この時、三浦梧楼も負傷したものの、長州藩兵が決死の覚悟で戦ったので、かろうじて勝利をものにできたようです。

戦死した48名は、維新戦役忠魂碑の東の山上にある仲哀天皇九条陵の西隣の墓地に埋葬されているとのこと。

そして、大正6年は戦死者の50年忌にあたるため、維新戦役忠魂碑が建立されたということです。

東福寺には、他にも鳥羽伏見の戦いの史跡がありますから、興味のある方は参拝してはいかがでしょうか。

なお、東福寺の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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