京都市中京区の木屋町通は、幕末に多くの暗殺事件が起こった通りとして知られています。
佐久間象山、大村益次郎など、幕末明治維新に貢献した人物も木屋町通やその周辺で命を落としています。
京都で天誅が流行り出したのは、文久2年(1862年)からです。
その年の閏(うるう)8月20日の夜、木屋町四条で勤王の志士の本間精一郎が暗殺されています。
弁舌巧みだった本間精一郎
本間精一郎は、越後三島郡寺泊町の酒屋の子として生まれました。
浪士組結成を実現した清河八郎とも交流があり、当時、勤王の志士として有名でした。
本間精一郎は、特定の藩に所属することなく勤王活動を行っていました。
勤王とは天皇のために働くという意味で、当時は、勤王の志士と呼ばれた藩士や浪士たちがたくさん京都に入り込んでいました。
本間精一郎は、藩に所属していなかったので、自由に全国各地を遊説できました。
長州、薩摩、土佐といった明治維新の実現に功績を残した藩にも遊説し、多くの志士に影響を与えたと言われています。
しかし、文久2年に薩摩の島津久光が藩兵を率いて上洛した際、薩摩藩を倒幕に向かわせようとしていた勢力が伏見の寺田屋で一掃されたことで、本間精一郎の勤王活動は下火になりました。
田中新兵衛と岡田以蔵に暗殺される
寺田屋事件の後、本間精一郎は酒色におぼれるようになります。
もともと同志を下に見る癖があったとも言われており、寺田屋事件後は、罵声も浴びせるようになったことから、次第に同志たちから嫌われ始めました。
また、青蓮院宮(しょうれんいんのみや)に取り入って出世しようとしていたことも同志たちから好ましく思われていませんでした。
そして、閏8月20日の夜。
本間精一郎は、先斗町(ぽんとちょう)で遊び、その後、四条の料理屋を出たところ、木屋町で8人の刺客に襲われ暗殺されました。
刺客の中には、薩摩藩の田中新兵衛と土佐藩の岡田以蔵もいたとされています。
この2人は、人斬りの異名を持っており、彼らに暗殺された公卿や幕府寄りの人々が多数います。
本間精一郎の首は、四条河原にさらされ、近くには彼の罪状が書かれた板が打たれていたそうです。
現在、本間精一郎が暗殺された木屋町通の民家の玄関付近に「本間精一郎遭難之地」と刻まれた石碑が立っており、その後ろには説明書も設置されています。
本間精一郎が暗殺されなければ、その後、どのような活躍をしていたのでしょうか。
ただ弁舌が巧みなだけで、何もできなかった可能性もありますが。