京都市上京区の京都御苑の東にたくさんの木が生い茂った場所があります。
そこには、木々の中に埋まるように梨木神社(なしのきじんじゃ)という神社が建っています。
たくさんの木が生い茂っている場所に建てられた神社なので、かなり昔から存在していたんじゃないかと思っていたのですが、実は創建時期は明治時代だそうです。
江戸時代に功績を残した三条実万を祀る
梨木神社の祭神は、江戸時代末期の公卿の三条実万(さんじょうさねつむ)です。
梨木神社の由緒書を要約すると、実万は、「今天神」と呼ばれるほどの才色兼備の持ち主で、光格、仁孝、孝明の3天皇に仕え、明治維新のために活躍しましたが、安政の大獄で一乗寺村に幽居させられ、その後、58歳で亡くなりました。
それから、歳月が過ぎ、明治18年(1885年)に久爾宮朝彦親王(くにのみやあさひこしんのう)が、彼の功績を讃え、三条家の邸宅があった当地に神社を創建するよう発議し、梨木神社が建てられました。
大正時代には実万の子も合祀された
梨木神社が創建されてから、30年後の大正4年(1915年)には、実万の子も合祀されることになりました。
その子の名は、実美(さねとみ)。
父の実万は知らなくても、子の実美は知っているという方もいらっしゃることでしょう。
三条実美は、幕末に活躍した公卿で、孝明天皇と明治天皇に仕えた人物です。
実美は、天皇を敬い、外国人を日本から追い出そうとする尊王攘夷(そんのうじょうい)のために、長州藩とともに働きました。
しかし、彼のやり方は強引で、時には孝明天皇の名を勝手に使って、偽の命令を発することもありました。
さすがに孝明天皇も彼の強引なやり方には賛成できず、制裁を加えることにしました。
そして、文久3年(1863年)8月18日、実美は6人の公卿と長州藩とともに御所を追い出され、京都にいられなくなってしまいました。
時は過ぎ、明治元年(1868年)。
薩摩藩と長州藩を中心とした軍が、江戸幕府を倒し、新政府が樹立されます。
そして、実美も中央政界に返り咲き、太政大臣にまで出世することができました。
しかし、明治新政府での実美の功績は大したものではありませんでした。
ただ、実美は、明治2年の東京遷都に際して京都御所を廃止するという案に反対し、京都の文化を守ったという点では、評価されてもいいのではないでしょうか。
木に埋もれそうになっている梨木神社に参拝する時は、三条実美の功績にも感謝しないといけませんね。
梨木神社には、他にも京都三名水の一つとされる染井の水があります。
私は、参拝した時、この染井の水を完全に見落としていたので、どのような水なのかはわかりません。
京都三名水の他の2つは枯れてしまったそうですが、梨木神社の染井の水は今も汲むことができるようですね。
染井の水については、「mitakeつれづれなる抄」さんの梨木神社と染井の水の記事をご覧になってください。梨木神社についてもいろいろと紹介されていますよ。(2017年9月13日追記:左記ブログは閉鎖されています)