京都市中京区の河原町二条の交差点から北東に5分ほど歩くと、銅駝(どうだ)美術工芸高校があります。
この銅駝美術工芸高校が建っている地は、明治時代に舎密局(せいみきょく)が置かれた場所です。
京都における理化学研究所
舎密局とは、今でいう理化学研究所のことです。
オランダ語で化学を「シェミー」とか「シェミストリ」といったことから、あて字で「舎密」としたそうです。
舎密局が造られたのは明治3年(1870年)です。
当時の京都府知事であった槙村正直が明石博高(あかしひろあきら)の建議により仮設立し、同6年に完成しました。
ちなみに舎密局は、明治2年に大阪にも設置されていたので、京都は2番目に造られた舎密局となります。
舎密局跡にある説明書によると、ここでは、広く受講生が募集され、ドイツ人のワグネルら外国人学者を招いて、京都の伝統産業である陶磁器、織物、染色の改良実験をはじめ、わが国初の石鹸の製造、鉄砲水(ラムネ)等飲料の製造、七宝(しっぽう)、ガラスの製造等、工業化学の研究と普及に努めたとのこと。
現在でも、ラムネは売られていますし、石鹸も現代人がお世話になる機会が多いもの。
こういったものが、明治になって間もない時期には国内で製造されていたんですね。
また、舎密局で学んだ人の中には、島津製作所の創業者である島津源蔵もいました。
現在、銅駝美術工芸高校の近くに島津製作所創業記念資料館がありますが、ここは同社の創業の地です。
東京遷都により停滞していた京都の産業が、再度、近代化によって発達するのに舎密局は大きな役割を果たしたと言えます。
しかし、舎密局は、それほど長くは存在していませんでした。
明治14年に槙村正直の転任や勧業政策転換により舎密局は廃止されます。
そして、建物は明治28年に消失し、その後に銅駝小学校が移転してき、現在は銅駝美術工芸高校となっています。
周辺には、京都市役所などレトロな建物が数多く残っており、明治時代の雰囲気を感じることができます。
明治時代の初期から、石鹸の製造など工業製品の国産化に力を入れていたことが、その後、日本が工業大国に発展した理由なのでしょうね。
もしも、安易に工業製品を輸入に頼っていれば、日本は今のように便利にはなっていなかったかもしれません。
そう考えると、短期間ではあったものの京都に舎密局が置かれたことは、日本の近代工業史に大きな意義を与えたと言えそうです。