平安時代末期、平家でない者は人でないと言われていた時代。
時の権力者は、平清盛でした。
清盛は、娘の徳子を高倉天皇に嫁がせ、後に徳子は安徳天皇を生みます。
しかし、この頃、高倉天皇は一人の女性を寵愛していました。
その女性とは、小督局(こごうのつぼね)です。
平清盛に出家させられた小督局
小督局は、保元2年(1157年)に藤原成範の娘として生まれました。
彼女は、容姿が美しく、また、琴が上手なことで知られていました。
そのため、婚儀の話も彼女の元にたくさん舞い込んできており、その中でも冷泉隆房とは婚約する仲となっていました。
しかし、ある時、小督局は高倉天皇のもとに仕えることとなったため、隆房と別れることになります。
宮中に仕えることとなった小督局は、高倉天皇の寵愛を受け、皇女範子内親王を生みます。
これを知った平清盛は激怒し、小督局を亡きものにしようとします。
清盛の意思を知った小督局は、宮中を去り、その身を嵯峨野に隠しました。
宮中から小督局が去ったことで、高倉天皇は落胆します。
天皇の落胆ぶりを見た侍者の源仲国は、「どうにかして小督局を見つけ出し、宮中に連れて戻ってきます」と告げ、小督局を探しに出かけました。
そして、仲国が嵯峨野を探していると、どこからか琴の音色が彼の耳に聞こえてきます。
琴の音が聞こえる草屋の方に仲国が近づくと、そこには想夫恋(そうふれん)の曲を演奏している一人の女性がいました。
その女性こそ小督局だったのです。
仲国は、小督局に宮中に戻ってくるように説得しますが、彼女はただ泣くのみ。
そこで、仲国は宿の者に小督局が外出しないように頼み、高倉天皇のもとに彼女を探しだしたことを報告しに戻ります。
仲国の報告を受けた高倉天皇は、誰にもわからないようにこっそりと小督局を宮中に連れてくるように命じます。
そして、仲国は天皇の命に従い、小督局を誰にも気づかれないように宮中に連れ戻しました。
しかし、このことが清盛の耳に入ります。
清盛は、家臣を小督局の元に向かわせ、無理やり彼女の髪を切り、出家させてしまったのです。
清閑寺で生涯を終えた小督局
清盛に出家させられた小督局は、東山の清閑寺で生涯を終えたと伝えられています。
出家させられた彼女は、境内の要石から宮中にいた日々を懐かしむように都の方を眺めていたとか。
その後、高倉天皇は21歳という若さで養和元年(1181年)にこの世を去りました。
亡くなる前、天皇は、「自分の亡骸は小督局のいる清閑寺に葬ってほしい」と周囲に伝えていました。
その言葉どおり、高倉天皇は、清閑寺近くに埋葬されました。
また、小督局もその生涯を終えた後、高倉天皇後清閑寺陵の傍らに葬られます。
今では、誰にも邪魔されることなく、高倉天皇と小督局は、この地に眠っています。