保元元年(1156年)に後白河天皇と崇徳上皇が争った保元の乱は、後白河天皇の勝利に終わりました。
そして、負けた崇徳上皇は、仁和寺で謹慎した後、讃岐国(香川県)に配流となります。
望郷の思いから怒りへ
讃岐へ向かう上皇の一行は、洛中を出て、鳥羽に差し掛かりました。
上皇が、何気なく牛車の中から外に目をやると、そこは見なれた鳥羽の地。
鳥羽には、上皇の父の鳥羽法皇が埋葬されている安楽壽院があります。
そこで、上皇は、讃岐に流される前にせめて父の墓参りがしたいと役人にお願いします。
役人は、鳥羽法皇の御陵近くには行くことができるが、上皇を車から降ろすことはできないと伝え、上皇もそれを承諾し、車の上から御陵を拝んだそうです。
牛車と船に揺られ、上皇は配流先の讃岐に到着し、最初の3年は松山村白峰の長明寺が配所に当てられ、その後、府中の鼓ヶ岡に遷されました。
上皇の望郷の思いは、時が過ぎるほど、強くなっていきます。
この上皇の思いを叶えようと、女房の佐ノ局(すけのつぼね)が何度も上皇の赦免を朝廷に願い出ましたが、全く許される気配がありません。
そこで、上皇は、五部大乗経の写経を日課とし、3年の歳月をかけて完成させます。
上皇は、都へ戻ることができないのなら、せめて写経した五部大乗経を安楽壽院に置いてほしいと思い、下の歌とともに朝廷に送りました。
浜ちどり 跡は都に 通へども 身は松山に 音をのみぞ聞く
しかし、上皇の願いは朝廷に聞かれることはなく、写経もそのまま讃岐の配所に送り返されてきました。
これに激怒した上皇は、「われ、魔性とならば、王をとって下民となし、下民をとって王となし、この国に、世々、乱をなさん」と言って、舌を噛み切り、経巻の奥に誓言を血書したと伝えられています。
そして、上皇は都を呪い続け、長寛2年(1164年)8月、46歳で亡くなり、白峰に埋葬されました。
都で起こる異変
上皇が亡くなった後、その寵愛を受けていた阿波内侍(あわのないし)は、遺髪を請い受けて、京都市東山区に上皇の御廟を築きました。
この御廟は、現在も崇徳天皇御廟として残っています。
崇徳上皇が崩御した後、生前に口にした「王をとって下民となし、下民をとって王となし」という言葉は現実のものとなりました。
まず、保元の乱の後に起こった平治の乱に勝った平清盛が、太政大臣となり、朝廷の家臣であった武士が台頭し始めます。
そして、源平の争乱で、平家が滅亡すると源氏が力を持ち、源頼朝が鎌倉幕府を開いたことで、朝廷中心の政治から武士中心の政治へと変わりました。
まさに王が下民となり、下民が王となったのです。
また、崇徳上皇の崩御の後、都では、異変が起こります。
特に、治承元年(1177年)の太郎焼亡と翌年の次郎焼亡では、数千人の人が犠牲となり、当時の人々は、都で起こる異変を崇徳上皇の祟りとして恐れました。
あるテレビ番組では、崇徳上皇が亡くなってから100年おきに日本で異変が起こっていると紹介していました。
その異変を以下に示します。
- 蒙古襲来(文永の役=1274年、弘安の役=1281年)
- 南北朝の争乱(1336年から1392年)
- 応仁の乱(1467年)
若干のずれはありますが、確かに約100年おきに異変が起こったと言えますね。
崇徳上皇を祀る神社
京都には、崇徳上皇を祭神として祀っている神社がいくつかあります。
崇徳上皇御廟の近くに建つ安井金毘羅宮もそのひとつです。
創建は、元禄8年(1695年)で、崇徳上皇が亡くなって500年以上も経ってから、創建されていますね。
上京区にある蹴鞠の神社として有名な白峯神宮も崇徳上皇を祀っています。
白峯神宮の創建は明治元年(1868年)で、明治天皇が讃岐の白峯陵から崇徳上皇の神霊を勧請しました。
明治時代に入っても、崇徳上皇の祟りが恐れられていたことが伺えます。
日本で異変が起こった時、それは崇徳上皇の祟りかもしれません。
今後何事も起こらないように、崇徳上皇の神霊を祀っている神社に参拝しておいた方がいいですね。
なお、崇徳天皇御廟については、以下のページを参考にしてみてください。