延元2年(1337年)12月。
東北を出発した北畠顕家は、足利義詮(あしかがよしあきら)がいる鎌倉を攻略し、そのまま一気に吉野に向かって進軍しました。
しかし、青野ヶ原で足利軍と戦って伊勢に敗走、その後も般若坂で敗北し、顕家は行方知れずとなります。
石清水八幡宮に籠城
北畠顕家は、再起をかけて、ともに行軍していた弟の顕信と新田義貞の子の義興(よしおき)を京都府八幡市の石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)に籠城させることにしました。
顕家には、石清水八幡宮は、源氏の信仰が篤い神社なので、源氏の流れをくむ新田義貞が、我が子が籠城していることを知れば、きっと北陸から駆け付けてくるだろうという狙いがあったのです。
そこで、新田義興と北畠顕信は、吉野方面で兵を募って、延元3年3月に石清水八幡宮にたてこもりました。
そして、北畠顕家は、河内から和泉へと向かい、湊川で戦死した楠木正成の一族と東寺付近の戦いで戦死した名和長年の子の義高の兵を集めて、上洛することにします。
これで、北から新田義貞、南から北畠顕家が上洛して、京都にいる足利尊氏を挟み撃ちにすることができます。
延元3年3月。
当初の計画通りに新田義興と北畠顕信は、石清水八幡宮に籠城しました。
高師直の出陣
足利家も源氏の流れをくむ武門だったので、石清水八幡宮は、尊氏にとっても特別な社です。
そこに南朝の武将が籠城したというのですから、尊氏は、彼の片腕の高師直(こうのもろなお)を出陣させることにしました。
また、石清水八幡宮は、源氏にとって特別な社というだけでなく、京都の南西に位置する戦略上も重要な男山にあります。
京都を守るためには、どうしても石清水八幡宮を攻略しておかなければなりません。だから、高師直を出陣させたのです。
高師直は、一部の兵で男山を包囲し、自らは河内方面へと向かいました。
北畠顕家が上洛してくるのを食い止めるためです。
また、北畠顕家を先に倒しておけば、男山は孤立して食糧を確保できなくなります。そうなれば、石清水八幡宮に籠城する新田義興と北畠顕信を攻略しやすくなります。
北畠顕家と高師直との戦いは一進一退。
しかし、心理的には、北畠顕家の方が、男山を孤立させていはいけないという気持ちがある分だけ苦しい状況です。
北畠顕家と名和義高の戦死
5月21日。
吉野から男山を救援するようにという命を受けた北畠顕家は、名和義高とともに2千の兵を率いて天王寺から進軍を開始しました。
これに対して、高師直の軍勢は10倍の2万。
高師直は、北畠顕家を挟み撃ちにするために1隊を阿倍野方面に向かわせました。
これを好機とみた北畠顕家は、北上を開始。
名和義高は、背後に回った敵を北畠顕家から遠ざけるために南下します。
そして、ある程度まで背後の敵を南に誘い込んだ後、北上して北畠顕家と合流することにしました。
しかし、名和義高の作戦は失敗に終わり、堺の浜で戦死。
従兄弟の名和義重も討ち取られました。
北上していた北畠顕家も、5月22日に阿倍野付近で討ち取られたということですが、詳しい場所まではわかっていません。
石清水八幡宮炎上
北畠顕家と名和義高の戦死は、吉野の後醍醐天皇にすぐに伝えられ、そこから北陸の新田義貞にも報告されました。
そして、直ちに男山の救援に向かうようにという命が新田義貞に下されます。
義貞は、まだ北陸で戦っている最中だったので、男山には、弟の脇屋義助を向かわせることにしました。
新田義興と北畠顕信が男山に籠城して4ヶ月が経った7月。
彼らを包囲していた高師直に脇屋義助が北陸から進軍してきているという情報が届きました。
このままでは、挟み撃ちにされてしまうと思った高師直は、遂に火攻めを決意します。
そして、風の強い日を選んで、南と西から男山に火を放ちました。
炎は瞬く間に頂上へと達し、石清水八幡宮の社殿は炎上。
新田義興と北畠顕信は男山から退却しましたが、多数の兵が焼死しました。
現在の石清水八幡宮の社殿は、寛永11年(1634年)に徳川家光が寄進したものです。
石清水八幡宮の展望台からは、京都市内を一望できます。
展望台に立つと、北には木津川、宇治川、桂川が流れており、西には天王山が見えます。
東側も急な坂となっていることから、石清水八幡宮が鎮座する男山を攻略するのが難しいことは、容易に想像できます。
なお、石清水八幡宮の詳細については以下のページを参考にしてみてください。