延元元年(1336年)10月10日に足利尊氏に降伏した後醍醐天皇は、花山院に幽閉されることになりました。
後醍醐天皇の警護は厳しく、使えるのは女房達だけで、吉田定房や万里小路宣房(までのこうじのぶふさ)といった側近たちは、別の場所に監禁され、後醍醐天皇に近づくことを許されませんでした。
11月1日。
足利尊氏が花山院に後醍醐天皇を訪ねてきました。
成良親王を皇太子とすることを条件に三種の神器を引き渡す
足利尊氏が、後醍醐天皇を訪ねた目的は、三種の神器の引き渡しを要求するためです。
尊氏は8月に持明院統(じみょういんとう)の光明天皇を即位させ北朝を樹立しました。
新しい天皇が光明天皇であることを世間に認めさせるためには三種の神器が必要です。
そこで、尊氏は、光明天皇の次の天皇には、後醍醐天皇の皇子の成良親王(なりながしんのう)を即位させることを約束し、光明天皇の皇太子とすることを提案しました。
この条件を後醍醐天皇は受け入れ、翌2日に三種の神器を光明天皇に引き渡しました。
花山院から脱出
三種の神器を引き渡した後醍醐天皇の待遇は変わることなく、さらに尊氏は、新田義貞追討の綸旨(りんじ)を後醍醐天皇に要求します。
その頃、新田義貞は、後醍醐天皇の策により、恒良親王(つねながしんのう)と尊良親王(たかながしんのう)とともに敦賀の金ヶ崎城に向かい兵を集めて再起を図ろうとしていました。
もしも、後醍醐天皇が綸旨を出せば、新田義貞は朝敵となり、今後の戦いが不利となります。
しかし、囚われの身の後醍醐天皇は、足利尊氏の要求を拒むことができず、新田義貞追討の綸旨を下しました。
このままでは、足利尊氏に利用され続けるだけ。
そう思った後醍醐天皇は、幽閉されている花山院から脱出することにしました。
向かうのは、数年前に護良親王(もりながしんのう)が、鎌倉幕府を倒すためにたてこもった吉野。そこなら、後醍醐天皇に味方する者たちも多いと判断したからです。
そして、12月21日。
後醍醐天皇は、わずかな供と花山院から抜け出し、三種の神器を持って吉野へと向かいました。
実は、光明天皇に渡した三種の神器はニセモノで、本物の三種の神器は、後醍醐天皇が持っていたのです。
吉野へと落ちのびた後醍醐天皇は、この地で吉野朝廷、すなわち、南朝を樹立し、足利尊氏が樹立した北朝と戦うことにしたのです。
これより後、南北朝の争乱は約60年続くことになります。
後醍醐天皇が幽閉されていた花山院の跡地には、宗像神社(むなかたじんじゃ)が建っています。
今は、とても静かな神社です。
もしも、後醍醐天皇が花山院を脱出しなければ、長く続く南北朝の争乱は起こらなかったかもしれませんね。
なお、宗像神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。