延元元年(1336年)10月10日に足利尊氏に後醍醐天皇が降伏しました。
後醍醐天皇に仕えていた新田義貞は、恒良親王(つねながしんのう)と尊良親王(たかながしんのう)とともに北国に向けて旅立ち再起を図ります。
冬の寒さが厳しくなる時期に敦賀の金ヶ崎城を目指して進む新田義貞とその一行。
比叡山を出発した時には7千ほどの軍勢でしたが、途中、寒さに負けて離脱する者、足利軍に降伏するものなど、次々にその数は減っていき、金ヶ崎城に到着した時は、出迎えに来た気比氏治(けひうじはる)を合わせても500ほどしかいませんでした。
援軍を募る新田義顕と脇屋義助
新田義貞が金ヶ崎城に到着した時、嫡子の義顕と脇屋義助は、敦賀から越中、越後、信濃と援軍を募る旅に出ていました。
しかし、金ヶ崎城は、足利高経の軍勢が取り囲み、援軍が来るまで持ちこたえることができるどうかわからない状況です。
そこで、新田義貞は、杣山城(そまやまじょう)の瓜生保(うりゅうたもつ)に援軍を要請し、背後から足利軍を攻撃させることにしました。
ところが、瓜生保は、杣山城から攻撃を仕掛けません。
京都の足利尊氏が、後醍醐天皇に新田義貞討伐の綸旨(りんじ)を出させたからです。
さらに新田義顕と脇屋義助が募った3千の軍勢も、朝敵になることを恐れて一夜にして逃げ出し、その数は1割程度にまで減りました。
そして、最終的に新田義顕と脇屋義助が募った兵は、わずか16騎が残るだけとなりました。
金ヶ崎入城
金ヶ崎城を囲む足利軍は約3万。
16騎の兵では、到底、城に入るのは不可能です。
新田義顕と脇屋義助は、自害を考えましたが、どうせ死ぬのなら戦場で討ち死にすることを選ぶことにし、最後の軍議を開きます。
とにかく少しでも多くの軍勢がいるように見せかける必要があったので、まず、夜明け前に林の中でかがり火を炊くことにしました。こうすれば、数百人の兵がいるように見えるからです。
そして、攻撃を仕掛ける時には、大声で3万の援軍が駆け付けたと叫ぶことにしました。
この作戦が見事に功を奏し、わずか16騎であったものの奇襲に成功。
足利軍が乱れているところへ、金ヶ崎城から新田義貞の兵も出撃し、新田義顕と脇屋義助ら16騎は、無事に入城することができました。
金ヶ崎落城
新田義顕と脇屋義助が金ヶ崎城に入城したものの、新田軍にとって不利な籠城戦は続きます。
年が明けて延元2年1月になると、包囲する足利軍に高師泰(こうのもろやす)などの軍が加わり、さらに新田軍は不利な状況になりました。
そんな中、後醍醐天皇が幽閉されていた花山院を抜け出し、吉野へ遷幸した知らせが金ヶ崎城に届きます。
この報告で、金ヶ崎城内の士気は一時的に上がったものの、食糧が少しずつ減っていく状況では、そのうち、城兵が餓死することは、誰の目にも明らか。
しかも、新田軍に加勢することとなった瓜生保も戦死したため、金ヶ崎城は完全に孤立しました。
せっかく、後醍醐天皇が吉野に脱出したのに新田軍が北陸で全滅したのでは、意味がありません。
そこで、2月に新田義貞、脇屋義助、洞院実世(とういんさねよ)が城を抜け出し、杣山城に移動することにしました。
3月に入り、金ヶ崎城内の食糧はほとんどなくなり、兵たちは馬を食べて生きながらえていました。
包囲する足利軍は、城内から馬のいななきが聞こえなくなったことから、敵の食糧が底を尽いたことを察知します。
特に新田軍は騎馬戦を得意としていたことから、馬がいなくなったのでは、まともに戦うことができません。
そして、3月6日。
遂に足利軍5万が、金ヶ崎城へ攻撃を開始します。
城内にいた兵たちは、やせ細って戦うことができません。
もはやこれまでと観念した新田義顕は自害。
続いて尊良親王、一条行房も自害して果てました。
まだ13歳であった恒良親王は城から脱出しましたが、足利軍に捕えられ京都へと護送されました。
足利軍は城内の戦死者の中に新田義貞の姿がなかったことから、恒良親王にどこに行ったのか訊ねますが、1ヶ月前に自害したと嘘をつき、義貞が再び挙兵するのを助けています。
尊良親王墓
金ヶ崎城で自害した尊良親王の首は、京都の足利尊氏のもとへ届けられました。
そして、夢窓国師によって、左京区の禅林寺(永観堂)で喪礼が執り行われました。
永観堂の近くには、尊良親王の墓が住宅に混ざってひっそりとあります。