新撰組が京都に登場したのは、文久3年(1863年)です。
その翌年には、新撰組を有名にした池田屋事件や蛤御門の変が起こっています。
当時の新撰組は、壬生の八木邸を屯所としていましたが、やがて隊士が増えてくると手狭になったため、もっと広い場所に屯所を移転する必要が出てきました。
そこで、慶応元年(1865年)3月10日に第2の屯所に移転することになります。
その第2の屯所が、現在、世界遺産に登録されている西本願寺だったのです。
境内で軍事演習
新撰組が屯所として使用したのは、西本願寺の北東にあった北集会所と太鼓楼でした。
西本願寺の説明書きによれば、幕府と敵対する長州藩と西本願寺とは深い縁があり、何かにつけて長州藩士が西本願寺を頼りにしていたことも新撰組が屯所を西本願寺に移転した理由のひとつとされています。
ところで、西本願寺は、新撰組が屯所としたことをどう思っていたのでしょうか。
新撰組は、空砲ではありましたが、境内で大砲の練習をしたり、実弾射撃をしていたそうです。
西本願寺の境内が広いとはいえ、実弾射撃は非常に危険です。
そのため、僧侶や参拝者からは迷惑がられていたようですね。
残飯と豚の飼育
西本願寺の僧侶が新撰組を迷惑に思っていた理由には、軍事演習の他にもあります。
新撰組は、男所帯であったことから、屯所内は非常に汚い状況でした。
特に残飯を放置していたことから、台所は強烈な異臭が充満していたそうです。
そういった不衛生な環境で生活していたことから、隊士の4分の1にあたる約50人が、何らかの病気にかかっていました。
隊士の診察にあたった医師の松本良順は、この不衛生な状況を改善するために豚の飼育を提案します。
この状況について、広瀬仁紀の新撰組風雲録の中で記載れている松本良順の日録を以下に引用します。
この廃物を以て豚を飼へば、必ず四五頭を養ふに足るべし。満年に至って屠(ほふ)り、隊中の壮士に食せしむべし。体力を進むる最善なり。残飯は、乾かして鶏を飼ひ、卵子を取りて食すべし。
さすがに境内で生き物を殺生することは、僧侶たちにとっては容認できない行為ですね。
西本願寺の資金で不動堂村へ
結局、新撰組は約2年で西本願寺を出ていき、慶応3年6月、不動堂村に第3の屯所を構えることになりました。
新撰組にとって西本願寺は、広いし、長州藩を牽制できるしと申し分のない場所でしたが、やはり、西本願寺の方が耐えられなかったようです。
とにかく、新撰組に出て行ってもらいたいため、移転費用を西本願寺が全額負担したことから、その心理が伺えます。
新撰組が屯所として使用した北集会所は、明治6年(1873年)に姫路市の本徳寺に一部移設されています。
そのため、西本願寺に残る新撰組所縁の建物は、太鼓楼だけとなっています。
維新後、西本願寺の守衛を勤めた元隊士の島田魁(しまだかい)が、太鼓番をしたと伝えられています。
幕末の京都の治安を守った新撰組ですが、当時の西本願寺の僧侶たちにとっては、厄介者でしかなかったようですね。
その他の新選組屯所
関連記事