金剛山の千早城にたてこもる楠木正成の抵抗が思いのほか激しかったため、鎌倉幕府は、元弘3年(1333年)3月下旬に名越高家(なごしたかいえ)と足利高氏を鎌倉から出陣させることにしました。
これまで、仮病を使って出陣を拒んでいた足利高氏も今回は、執権の北条高時の命を拒否できず、妻子を人質に差し出して西へと向かうことになりました。
北条高時は、足利高氏がすすんで妻子を人質として差し出したことに大いに喜び、源義家より伝わる源氏の白旗を高氏に与えます。
名越勢と足利勢が上洛すれば、後醍醐天皇方の反乱も鎮まるはずと期待は膨らみます。
のらりくらりと上洛する足利高氏
3月27日に鎌倉を出た足利勢でしたが、4月14日になっても、まだ三河にいました。
この頃には、名越勢は、京都の六波羅に到着しています。
足利高氏が、ゆっくりと上洛しているのには理由がありました。
それは、後醍醐天皇から討幕のために働くようにという勅命を受けることです。
足利高氏は、源氏の出で、鎌倉幕府が平家の流れを汲む北条氏によって牛耳られていることが不服でした。
だから、いつの日か、北条に代わって足利が幕府を開くことを考えていたのです。
そして、後醍醐天皇から勅命が下り、足利高氏は鎌倉幕府を裏切ることを決断しました。
伯耆へ向けて出陣する予定が変更される。
上洛した足利高氏は、先に到着していた名越高家とともに後醍醐天皇がたてこもる伯耆の船上山(せんじょうせん)へ向けて出陣することになりました。
足利軍は丹波口、名越軍は鳥羽口にいったん布陣。
ここから二手に分かれて船上山に向けて進軍する予定でしたが、山崎の赤松円心が京都を何度も攻撃してくるので、まずは赤松勢を退治することに六波羅探題の方針が変わりました。
そして、4月27日。
名越高家と足利高氏は、赤松円心を討ち取るために出陣しました。
久我畷の戦い
二手に分かれて進軍する幕府軍のうち、最初に赤松勢とぶつかったのは、名越高家の軍勢でした。
名越勢約7千が山崎を目指して進んでいると、現在の京都市伏見区の久我に差し掛かったところで、近くに潜んでいた赤松勢の伏兵が一斉に矢を浴びせてきます。
この辺りは、広い田んぼとなっており、名越勢の騎馬は、足をとられ思うように動けません。
そこにたくさんの矢が射かけられたのですから、名越勢は、これといった戦いもないまま多数の犠牲者を出すことになりました。
特に痛手だったのは、大将の名越高家が戦死したことです。
名越高家を討ち取ったのは、佐用範家という侍でした。
佐用範家は、弓が得意で力も強く、その矢は、名越高家の眉間を貫いたと伝えられています。
この戦いは、後に久我畷の戦いと言われるようになりました。
久我畷の戦いの最中、足利勢は、まだ後方に待機しており、両者の戦いを静観していました。
そして、名越勢が敗退したのを確認してから、領国の丹波篠村へと移動し始めました。
現在の久我には、田んぼが広がっています。
昔も今も、ここは田園地帯のまま変わっていないようです。
その久我には、古社の久我神社(こがじんじゃ)が建っています。
久我神社は、桓武天皇が長岡京の鎮守社として創建したのが始まりと伝えられています。
境内は木々に包まれており、静寂の空間となっています。
この辺りで久我畷の戦いが起こった時は、今のように静かではなかったでしょうね。
なお、久我神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。