文久3年(1863年)に結成された新撰組は、当初は、芹沢鴨(せりざわかも)、新見錦(にいみにしき)、近藤勇(こんどういさみ)の3人が局長、つまり、組織のトップでした。
しかし、最終的には近藤勇だけが局長となり、他の2名は局長を降りることになります。
では、芹沢鴨と新見錦は、なぜ、局長を降ろされたのでしょうか。
大坂での力士との乱闘
芹沢鴨は、とにかく乱暴な性格で、酒を読んで酔っ払うと手が付けられないほど暴れまわるという酒乱でした。
文久3年夏に大坂町奉行所の要請で不逞浪士の取り締まりのために京都から出張した際も芹沢鴨は事件を起こしています。
大坂出張中、芹沢は、いつものように酒を飲んで酔っぱらっていました。
そして、酔った足で飲み屋から帰る途中、橋に差し掛かると向こうから力士たちが歩いてきました。
力士たちは、ふざけて芹沢以下新撰組隊士が橋を渡ろうとするのを邪魔します。
これに怒った芹沢は、いきなり抜刀し、目の前の力士に斬りつけ、悠々と橋を渡り、そのまま北新地の遊郭住吉へと向かいました。
それからしばらく時間が経つと、住吉の周辺がざわつき始めます。
そう、先ほど芹沢に斬られた力士の仕返しをするために60人ほどの力士たちがやって来たのです。
芹沢達新撰組は、力士たちを相手に刀を抜き大乱闘が始まりました。
これにより力士は5人が即死、10人以上の負傷者を出すことになりました。
芹沢鴨が大坂に出張している間、彼の片腕ともいえる新見錦は、京都で留守番をしていました。
この頃の新見は、祇園の山の緒という料亭に入り浸っており、それに必要な費用は、町人をゆすったりして工面していました。
新撰組では、勝手に金策することを禁止しているので、新見のこの行動は規則に触れる行いです。
しかし、新見は、山の緒の女将に惚れていたため、そのようなことは気にもせず、ゆすりを繰り返していました。
金策のために大砲で豪商を脅す
文久3年8月11日。
この日、芹沢鴨は豪商の大和屋庄兵衛方に出向きます。
その理由は、新見錦が、大和屋が天誅組の藤本鉄石に金を貢ぎ、朝廷に1万両を献納したという情報を芹沢の耳に入れたからです。
実際のところは、数日前に不逞浪士が天誅と言って暗殺した豪商がいて、大和屋も彼らに狙われており、身の安全を確保するために朝廷に何とかしてもらおうとして献納したものでした。
芹沢も大和屋から金をゆすろうとしましたが、大和屋はこれを拒否します。
すると、芹沢はあきらめたようにその日は帰りましたが、後日、大砲を持って大和屋を訪れ、建物に向かって発砲し始めます。
そして、壊れた建物から、店の品々を略奪し、帰っていきました。
最初に粛清された新見錦
これ以上、芹沢鴨を好き勝手にさせていては、新撰組の評判は下がるばかり。
そこで、近藤勇は、芹沢鴨と新見錦を粛正することにしました。
まず最初に粛清されたのは新見錦でした。
新見が勝手に金策していることは、近藤勇の耳にも入っていました。
いつものように新見が山の緒にいたところ、副長の土方歳三(ひじかたとしぞう)以下数名が、店に現れ、新見がいる部屋につかつかと入っていきます。
そして、新見が勝手に金策していることを追求し、詰め腹を切らせました。
芹沢鴨は酒宴の後に粛清
次に芹沢鴨の粛清です。
9月18日。
この日は、島原の角屋輪違屋(わちがいや)で、新撰組が盛大に酒宴を開きました。
酒が好きな芹沢は、浴びるように酒を飲み、泥酔したまま屯所の八木邸に戻ります。
芹沢が完全に寝入った頃。
土方歳三、山南敬助、原田左之助、沖田総司の4人が、気づかれないように八木邸に侵入します。
そして、芹沢鴨を暗殺。
芹沢の腹心である平山五郎もこの時に暗殺されましたが、平間重助はいち早く異変に気づいてその場から逃げ去りました。
その後、平間重助の消息はわかっていません。
葬儀で弔辞を読む近藤勇
事件から2日後の9月20日。
もうひとつの新撰組の屯所である前川邸で芹沢鴨と平山五郎の葬儀が行われました。
2人を暗殺したのは、長州系の浪士ということにし、葬儀では近藤勇が弔辞を読みました。
そして、2人は、近くの壬生寺(みぶでら)に葬られました。
現在、壬生寺には壬生塚があり、新撰組隊士たちの慰霊碑があります。
壬生塚には、芹沢鴨と平山五郎の名もあり、没年が文久3年9月18日と書かれています。
なお、壬生寺については以下のページを参考にしてみてください。