新熊野神社の今熊野猿楽図

京都市東山区に建つ新熊野神社(いまくまのじんじゃ)は、永暦元年(1160年)に後白河上皇が熊野権現(くまのごんげん)を勧請(かんじょう)し、法住寺殿の鎮守としたのが始まりとされています。

後白河上皇は、今様(いまよう)という当時の流行歌が大好きで、その歌謡集である梁塵秘抄(りょうじんひしょう)を編んだのはよく知られた話です。

それから約200年後、新熊野神社で足利義満が観阿弥と世阿弥父子の能を観覧しています。

能ゆかりの神社

新熊野神社は、京阪電車の七条駅から南東に約10分歩くと到着します。

鳥居は東大路通に面して立っており、その南側には後白河上皇お手植えのクスノキが植えられています。

鳥居

鳥居

鳥居をくぐって、右側には、当社が能ゆかりの神社であることを示す説明書や石碑などがいくつか設置されており、参拝者の興味をひきます。

能は、散楽(さんがく)から発達したもので、平安時代には猿楽(さるがく)と呼ばれるようになり、神社やお寺の儀式に用いられるようになりました。

奈良時代に唐から輸入された芸能ということですから、1300年もの長きにわたって親しまれてきたんですね。

鎌倉時代には、近畿地方で演劇的要素が取り入れられ猿楽能となり、南北朝時代には、金春流の円満井座、観世流の結崎屋(ゆうざきや)、宝生流の外山座(とびざ)、金剛流の坂戸座の大和猿楽四座が登場します。

観阿弥と世阿弥は、結崎屋から出ており、応安7年(1375年)に新熊野神社で、室町幕府3代将軍足利義満の前に能を披露しています。

今熊野猿楽図

下の写真は、新熊野神社復元図や今熊野猿楽の説明書です。

今熊野猿楽の説明

今熊野猿楽の説明

これによると、現在の日本を代表する芸能である「能」「狂言」「歌舞伎」などは、全て今熊野猿楽から始まっているとのこと。

猿楽と能楽は同じ意味で、明治14年(1881年)に能楽社が設立されるまで、現行の「翁」を「翁猿楽」、「能」を「猿楽能」と呼んでいました。

今熊野猿楽は、「観阿弥の能」という意味で、観阿弥はそれまでの猿楽能に革命をもたらし、それを世阿弥が受け継ぎ、足利義満の庇護を受け、現在の「能」へと大成させます。

近年の研究では、当時の新熊野神社が足利将軍家や北朝の歴代天皇と密接な関係にあったことなどがわかってきたそうです。

足利義満が今熊野猿楽能を観覧したのは、当社の例大祭である水無月祭当日とのこと。

下の写真に写っている「今熊野猿楽図」は、その時の様子を描いたものです。

今熊野猿楽図

今熊野猿楽図

近くには、背景に能面が描かれた「世阿弥 義満 機縁の地」の石碑も置かれています。

世阿弥 義満 機縁の地

世阿弥 義満 機縁の地

熊野猿楽能が披露されたのは、当時の新熊野神社で最も風光明媚なところであった鳥居をくぐって左側と考えられています。

後ろを音無川が流れており、園池を背景に演能できるのは、この場所しかなかったようです。

今は音無川は流れておらず、付近は昭和から続いていそうな懐かしい造りのお店や家屋が軒を並べており、風光明媚とは言い難い景観になってますね。

新熊野神社に参拝した際は、今熊野猿楽図もご覧になってください。

なお、新熊野神社の詳細については以下のページを参考にしてみてください。

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