河原町通の拡幅で存続が決まった一之船入

鴨川に沿って北から南に流れる高瀬川は角倉了以によって開削され、江戸時代の京都の物流を支える重要な運河として機能しました。

しかし、京都の近代化に伴い舟運は廃れていき、高瀬川の存在意義も次第に失われていきます。

大正時代には、舟運が終了し高瀬川が利用されなくなり、もはや不必要な運河となりました。

でも、高瀬川は現在まで存続し、その北端には江戸時代の景観を今に伝える一之船入(いちのふないり)も残っています。

一之船入埋立計画

船入とは、船溜まりのことです。

下の写真に写っているのは、木屋町二条にある一之船入です。

一之船入

一之船入

昔ながらの景観が旅行者や観光客の方に人気で、ここで記念撮影をしていく人の姿をよく見かけます。

ただ、人が殺到するほどではなく、たまたま通りかかった時に日本らしい風景に魅かれて見ていくといった感じですね。

高瀬川には、最盛期で10の船入があったのですが、舟運の衰退とともに徐々に埋め立てられていきました。

大正6年(1917年)には、最後まで残った一之船入も埋め立て計画が持ち上がります。

岩波新書の『京都の歴史を歩く』によれば、明治維新後国有地として京都府が管理していた高瀬川と一之船入を高瀬船組合と京都市が無償下付を申請したものの却下されたそうです。

無償下付申請の目的は、高瀬船組合は負債の処理、京都市は水質汚染や臭気など衛生問題を解決することにあり、それら問題を解決するために一之船入を埋め立てようとしていたのではないかとのこと。

木屋町通拡幅計画

大正7年になり、再び一之船入を京都市に無償下付しようとする動きが見られるようになります。

無償下付が再燃した理由として前掲書には、以下の理由が挙げられています。

  1. 京都市が隣接町村を編入し、郊外を含む「大京都」を目指すようになった。
  2. 1910年代に京都市営電気軌道(京都市電)が民間の京電を統合することにより市内外の市電網の整備とそれに伴う道路拡幅が計画されるようになった。
  3. 東京市区改正条例が、京都にも準用され、市区改正を目的とすれば川沿いの国有地を市に無償で下付できるようになった。

これらの理由から、高瀬川沿いの木屋町通の拡幅計画が持ち上がり、そのために舟運が廃れ不要となった一之船入を埋め立てることが可能となりました。

この時が、高瀬川と一之船入の存続にとって最大の危機だったかもしれません。

河原町通拡幅計画

大正8年12月になると、都市計画議論が本格化し、南北の幹線道路として木屋町通拡幅案と河原町通拡幅案が対立するようになります。

近隣住民も、両案で対立するようになりましたが、高瀬川存続を望む者と河原町通拡幅を望む者との利害が一致したことから、高瀬川と一之船入の保存の声が高まります。

高瀬川の舟運が終了し、危機を感じた旅館や運送業者たちも高瀬川保存期成同盟会を結成、それが都市計画事業計画反対同志会に発展していきました。

また、史蹟名勝天然記念物法が大正8年に交付されると、これを盾に高瀬川の歴史上・景観上の価値が主張され、木屋町通拡幅案が劣勢となり、大正11年6月に都市計画委員会で、河原町通の拡幅が確定します。

これにより高瀬川の存続が決定され、昭和9年(1934年)には、一之船入が史跡に指定されました。

木屋町通、特に三条から五条の間を歩いていると、なんて狭くて歩きにくい道路なのだと文句を言いたくなりますが、それは、高瀬川と一之船入を保存した代償なんですね。

一方、河原町通は広々としており、祇園祭では、山鉾の巡行路として大勢の人が歩道から観覧できるようになっています。

もしも、木屋町通が拡幅されていれば、山鉾巡行は河原町通ではなく木屋町通を使っていたかもしれません。

現在の一之船入には、三代目となる高瀬舟が浮かんでいます。

一之船入に浮かぶ高瀬舟

一之船入に浮かぶ高瀬舟

船底は、完全に沈んでいるように見えますが。

春になると、一之船入で桜が咲き、高瀬舟とともに日本的な風景を楽しめます。

桜と一之船入

桜と一之船入

毎年、春に高瀬川沿いで桜を楽しめるのは当たり前になっています。

でも、その当たり前は、高瀬川を守ろうとした人々がいたから現在まで続いているのであり、何の苦労もなく昔ながらの景観を維持できているのではないんですね。

海外から多くの旅行者が訪れるようになった京都にとって、高瀬川と一之船入は重要な観光資源であり、その価値を見抜いた先人には大いに感謝しなければなりません。

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